上田閑照は「非神秘主義―禅とエックハルト」の冒頭でこう述べる。
(『聖なるもの』(1917)の著者、ルードルフ・)オットーが、ヴェーダーンタ神秘主義に比して特に禅にエックハルトとの親近性を見たのは、この両者に、停まることなき或る独特な無窮の動性、すなわち禅においてはどこまでいっても限りなく「上に向かって開かれて」いる開放性(des Nach-oben-Offene)、エックハルトにおいては「魂の根底」に働く「内に向かっての無限性」(Unendichkeit nach Innen)を感知したからであった。
(引用中、太字は引用者による追加)
考え方の傾向に、名前をつけること、つまり”禅”や”神秘主義”という名前、これは実はわかりやすい反面、その言葉自身が纏う雰囲気、例えば日本語であれば漢字自体が持つその出自やドクサ(たとえばこの国において”神”という語がそもそも読むものにもたらすイメージ)(→話が飛ぶが、実は”神を信じる”にYESの日本人は少ないが、神聖なものを敬うべき、と感じる日本人がこれも欧米と比して高い、そのことは代替状況を示しており、日本人がことさら神聖なもの【神的なもの、といっていい場合もあろう】を軽んじる、ということではないと考えるが)により、大きく制限され、その言葉が示す豊穣に、言葉への警戒から残念にもアクセスしない、という結果となることがあるだろう。
そうなることが本当に勿体ない、素晴らしい内実がこの”禅”や”エックハルト”(=ドイツ古典神秘主義とでもいうべきか)に含まれていると感じる。
現前する”どうしようもない現実”と見えるこの時間と空間という”仮設定”にこれまたどうしようもなく、盲目的にとりこまれ、振り回され、悩み、落ち込み、あるいは歓喜し、踊る日々である。歓喜すること、悲嘆にくれることに、本質的な意味はない、ただそうなる。もちろん個体の感覚に歓喜は良、悲嘆は悪、となることはわかる。わかるが、しかし、意味はない。生まれてしまった、生まれたことに意味はない、あとはただ生きるだけ。大きな意味で池田晶子さんはそう言った。
であれば。
禅、で気づく。
エックハルト、で実感する。
何を??
開放は上方に限りなく広がる。
魂は、内面に無限に沈潜する。
二つの無限は当然に交差する。
その中に、溶けいって、同化して、安らぐ。
たぶん、そうすることが生きる中で、
大切で、必要、なのだろう。