夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

3月3日 また本を買ってしまう。エリファス・レヴィの「高等魔術の教理と祭儀」、教理篇。魔術、という概念を略つかみたいという妄念からの購入か。

高等魔術の教理と祭儀 (教理篇)

 

エリファス・レヴィ (1810-1875) の「高等魔術の教理と祭儀」、教理篇、である。

注文したてなので、未入手であるが。

 

 

エリファス・レヴィ

アマゾンによる著者紹介は以下の通り。

 

フランスの神秘思想家。本名A.L.コンスタン(Alphonse Louis Constant)。西欧に伝わる魔術の基本、カバラ研究の権威であり、同時にまた実践者として〈魔道中興の祖〉と称される。パリで生まれ、はじめ聖職を志して神学校に学び、卒業後助祭の地位にまで進んだが、神秘主義社会主義に接近してしだいに正統的カトリシズムから遠ざかり、1844年に出版した著書《神の母》は教会から異端の書として糾弾された。45年には、ボードレールの同名の詩への影響が指摘される〈コレスポンダンス〉を含む詩集《三つの調和》を刊行している。46年、還俗して結婚生活に入るが間もなく離婚。51年、長年取り組んできた《キリスト教文献事典》を中途で放棄して魔術研究に没入、同時にカバラへの帰依のしるしとして名前もヘブライ語化して、エリファス・レヴィと改める。《高等魔術の教理と祭儀》(1855-1856)に続いて、60年から65年にかけてその方面の研究成果を〈オカルト哲学叢書〉として次々と世に問い、代表的なものに《魔術の歴史》(1860)、《大いなる神秘の鍵》(1861)などがある。死の直前、教会と和解したとも言われるが、その魔術関係の諸著作が19世紀後半以降のヨーロッパ異端思想や文学に与えた影響は甚大で、ボードレールヴィリエ・ド・リラダンマラルメランボー、W.B.イェーツ、ブルトンバタイユらにインスピレーションを与えたほか、現代の思想・文学・芸術・にまで大きな影を投じている。

 

こちら1982年の初版発行後、1994年に改定第2版が出ているようだ。

訳者は生田耕作

長年読み方を勘違いしていた”奢灞都館(さばとやかた)”を、のちに妻となるかをるさんと立ち上げた、あの生田の訳である。

1994年改訂版が出た年に生田は70歳で亡くなっている。

私は奢灞都館の書物を通じ、わが制作に霊感をたくさん下さる、わが故郷(神戸)の先達である画家の山本六三さんやアルフォンス井上さんを知った。

そういう意味で、生田訳(多くの書物を訳されてはいるが、そのそれぞれが、ご本人が訳したい、という意思を以てのことであったように感じる)は特別な書物である気がするのだ。

そして私は幻想絵画や文学が大好きだが、きちんといわゆる”魔術”と呼ばれる精神体系の歴史を学んできていない、という負い目がある。

 

まずどの本から手を手を付ければいいのか。そこもあまりに間口が広くて、戸惑ってしまう。

 

レヴィは以下のように言っているという。

 

「目に見えるものは、目にみえないものの発現である。あるいは、表現を変えれば、完全な言は目に見えるし、感知もしえない物事と正確につり合って存在している」

 

 今泉文子『鏡の中のロマン主義』 より

 

魔術、というものは、ここ日本におけるフィクションの世界では、今や大変に当たり前のものとなった。

いわゆる宗教のしがらみの少ない日本では、魔術が異端として迫害された、という感覚は存在せず、ただ単に”西洋の歴史的事実”として知るのみであろう。

密教しかり、魔術、の日本での似姿である祈祷や呪術は、いわば歴史的な方便、負の面はあってもいわば必要悪、として受け入れられていた、という理解である。

 

そういうカジュアルな法則とでもいえる”魔法”ではなく、いわば西洋文明では魔術というものはプラトンなどで言語化され、新プラトン主義やユダヤ教キリスト教イスラム教(西洋文明外かもだが)を経て脈々と続いてきた”精神史”の結果としての魔術、それがどんなものか、という把握が自分の中でうまく出来ていないのだ。

 

ということで、勢いがなんだかついたので、発注した。

この本はあまり簡単に文庫等で入手できない現状だ。

 

そういう本は”勢い”がないと買えないのだ。

 

ということで、購入の言い訳として、ここに覚えとして書いておく。

 

(いいわけ、いいわけ(´;ω;`))