昨日はスポーツセンター。
今週は月曜がスポーツセンターの月一の休館日だったので、1回だけ。できれば週2回できれば、と思ってはいるが。。
ただ最近は衣文かけと化してはいるが、部屋のぶら下がり健康器で”腕を曲げてぶら下がり”という技を右15秒2回、左2回やるようにしたら、すこし懸垂力がアップした感があり、気分がいい。
毎日目にしていると”使いこなしていない”というプレッシャーを感じるものだが(除く衣文かけ機能)、すこしでも使うと解消する。
昨日は5時半に入って8時まで、2時間半だが、休憩しながらの鍛えなので、実質1時間強といったところか。週に2時間以上は鍛えすぎ、という記事をどこかで見たので、週2回くらいでちょうどいいのでは、と思っている。
今朝の体重65.4kg、体脂肪は14.4%?!2キロほど絞るか、筋量UPが必要かもしれない。
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井筒俊彦の「コスモスとアンチコスモス」P.16にて、プロティノスの世界観が引かれている。
以前も一度引いた気がするが、このイメージは壮大で私の好みに合うので、再度引用してみる。
あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。ひとつ一つのものが、どれも己の内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。だから至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつ一つのものが、即一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。
Plotimi OperaⅡ, ed P.Henry et H.-R.Schwyzen, Paris,P.384
プロティノスの思想は、私の勝手な理解は、”すべては一である”というものだ。
であれば、まずはこの”肉体”にあり、なんとなく世界から切り離されているような気がするこの”私”、肉体と精神と魂(魂と精神はニアリーイコールか、重なっているか、同じか、別物か、というのがよく体感できていない)が、あれあれ結局は”一”のなかの”一”であり”全”であるのかーーー、という感じも受けるのだ。
その感覚は、なんだか広がる、気もちが。
死、というものが、状態変化であるとしても、肉体の状況変化だけで中身は不変、というのがある種の宗教的な考えだろうが、それもこれも含めて”一”、となれば、状態変化というのも含めて”一”で”全”である感じになる。
まあ、とにかく”なんでもあり”だ。
私はいつも空を見るたび、その涯はないのだなあ、などと思うのだが、
その不思議も含めて、宇宙と”宇宙の外”を含めて”一”なのだ、と思えば、なんだか安心する。
という面で、結構プロティノスは好きなのだ。
(こういった思想に接するたび、人類の思想はあまり進化してない、と思いますね。というかギリシャの精神がすごすぎるのでしょうか。。)