読書とは書いてあることと自分が「混ざる」こと。
森博嗣さんが大学の先生をなさっていたころ、学生に村上春樹を知っているかと聞くと知っていると言った生徒は数えるほどであった、というエピソードは





私にとっては破壊力がある情報であった。
森さんが名大で講義なさっていたのは理系(工学部?)だと思うが、なさっていた時期を考慮すると村上春樹がだいぶブレイクしていた時期だと思うので、
理系の皆さんがいわゆる”小説”を読まないと決めつけてしまうのはなんだが、まあその生活の中で村上春樹の名前がかすりもしなかった、というのは
人は見ている世界が個人個人でいかに違うのか、ということを思い知らされた気がした。
村上春樹は読んでなくとも皆さん聞いたことはあるはずだ、と思い込んでいた。
ぜんぜんそうではないのだ。
私は自分でいうのもなんだが、人と関わるよりは動物や虫や本の世界と接するのがいい、と幼稚園くらいの時から感じていた。
人は怖いな、
という感覚が今でもあるし、人と関わらないで過ごすことは、寂しがりではあるが、関わりたくない人とは無理に関わらない、という方向で今後も行くのだろう、と思っている。
今いる世界が面倒だな、と思ったときは、本(含む絵のある本(漫画も))に逃げ込んでいた。まあ、今のように映像が簡単に安価で見ることができる環境でなかったこともあるだろう。
子供の時は何度も絵本を(もちろんそれほど潤沢にはない)読み返すことで過ごしていた感がある。今考えると、この”読み返し”が非常に良かったと思う。
だがさすがに飽きてくると、他の本を探していた。
なにか面白い本はないか??
と。
そして面白い本と面白くない本を、自分の判断で心の中で選べることは、自身の判断を行使できる初めての機会であるなあ、と感じていたようにも思う。
その流れで本を読んできた。今はどうしても映像を見ることが多いが、それでも”いつか読みそうな本”に出合うと、買えるなら買ってしまう、という日々が長く続いた。
だがある日、部屋に入りきらなくなった。
で、仕方なく古本屋へ売った。
ドナドナ、という気分を深く味わった。
本とはその中の著者と”魂と魂で”交流する場である。
なので、ドナドナが示す”普通は食肉となる結末しかない使役動物”の中に秘められた”自分だけが深く関係している”魂を哀惜し、その喪失という事実になんとも折り合えない、という気持ちと、
本の中にある作者の魂を”売り払って”しまうという行為で感じる気もちが、
まったく同質のものであることにも気づいたのだ。
それからは、本を買うことに少しだけ慎重になった気がする。まだ、買ってはいるのだが。
本により作者と”魂の交流”をすれば、当然ながら読む前の自分と読んだあとの自分は必ず少しく変容している。
そのことを冒頭の松岡正剛さんの言葉はわかりやすく”混ざる”と表現している。
そしてその”自分ではわからない微細なる自身のミクロン変化”は、結構自分でもうれしいものである。
自分が”賢くなった”かは不明だが、少なくとも”より複雑には”なったわけであるから。
(この前の神田古本まつり、はそういう意味では危険な催しでした。できるだけ買わないように、と思いましたが、結局うろついた古本屋の棚で見つけた”ほしい本”の情報をもとに、AMAZONと”日本の古本屋”サイトで(最安値で)いろいろ買ってしまう自分がいます。。ですが結局買う本は神保町の古本屋が多かったりりします。。。(近いのに郵送となるのですが。。=倉庫保管が多い)
この世は生まれてきた”わが魂”をこうしてすこしずつ複雑化して、ユング的に言えば”潜在的無意識”の海(=神)に死して還る、というものではないか、と最近は感じています)