夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

コミュニケーションと対価。

昨日は図書館に行った。

 

電子書籍があたりまえになると、図書館はどうなるだろうか。紙の本を読む、という習慣がほとんどない親が出現したら、子供に紙の本を読んで聞かせる、ということは難しくなるだろう。その時、なんらかの変化が生まれるだろう。例えば電子書籍の端末に公共の絵本データが配信され、それを自動で子供が見ている、といったような。

 

数百年たてば間違いなくそのようになるだろう。その時昔は公共で紙の本を貸し出すような仕組みがあった、ということになろう。役所窓口などもそうだ。最近では車の対面販売がいやで、ネットで購入する傾向がある、という記事も読んだ。たしかにそうだ。車で販売店に行くことには、大きなハードルがある。別に買う気もないのにふらりと入ることは無理だ。よほどの車好きでないかぎり、あの場所はほとんど買うことを決めていて、値切りやメーカー選定のため向かう場所だ。ネットであればそもそもただ車の値段に興味がある、というレベルでもいいのだ。考えてみればあたりまえだ。

 

しかしそうなると、対面することで仕事を得ていた皆さんが必要なくなる。服の路面店が減っているのもその路線だ。スーパーのレジ打ちも。さまざまな窓口業務も兼務するコンビニは結構先まで残る気がする。一番最後の”対面対応窓口”となるかもしれない。

 

時計が好きなワタクシだが、たとえばデパートの時計売り場で、”いや試しているだけです”と言えるようになったのはごく最近だ。それまでは手に持ち、すすめられたのなら少なくとも数回の検討を経て買う気があります、というものしか見せていただくのは相手に失礼だ、と思っていた。“向こうも買う気もない客(いや、客ともいえないか)につきあっているほどヒマじゃない”。

 

それはもし、自分が店員ならそう思うであろう思いでもあった。

 

人と接することは基本的には”ストレス要因”だ。だから、対価を請求できる。

 

もちろん会うことで嬉しくなるような関係はありうる。だが、そんな楽しい関係がほとんどである相手であっても、対応を間違える、気分の悪い言葉を思わず言ってしまう、ということがあれば、嬉しい瞬間ばかり、というわけではないだろう。人は心の底に、そうした失敗への恐れをすべからく、ひそかに、持っているものだ。その思いに直面して評価してみると、本質的には人と接することは”面倒なもの”であり、だから”仕事”たりうる。

 

男性が女性に比してコミュニケーションを取らない、とされることもこのことが遠因だろう。女性は結果的に楽しくコミュニケーションを取っているように見えても、人とのかかわりにはすべからくその見返りを求めている。ママ友であればその組織、地域、グループでの情報や”ママとして情報を正しく求めている自分である”という”自己への承認欲求”への回答であったりする。わかりにくい、しあまりに自動的、深い習慣化されたものであるが、これは”お仕事”の一環だ。それを感じているので、しなくていい、という位置にいる男性は、コミュニケーションをとらない。それが、本質的に、楽だからだ。

 

例えば、WEBが(つまり自動で)こどもの世話をする、というのがスタンダードで、人が(例えば保育士が)ケアするのは高級有料ケアである、という差異も出現するだろう。ニンゲンの世話を受けるなんてなんて贅沢な、となるだろう。そんなことがあるか、と言える人がいるだろうか。冒頭の図書館と同じだ。

 

自分が一人でWEBに育てられた”デジタルチャイルド”であったなら、子供をニンゲンに育てさせることは心配でさえある。最近の”無資格シッター”の事例はそのことを予言的に示すものだ。有閑階級の乳母による被保育のように、”庶民(わたしこの言葉はなんだかドクサが強くて使いづらいのですが)にはヒトによる保育は贅沢だ”となるだろう。

 

(なんだか今の身からするとディストピアを語っているようですが、電子書籍があたりまえのものになってきたように、その時になれば当たり前になるのでしょう。まあ、百年位先のことですが)