夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ハラスメント。

ハラスメントについて。

 

さまざまなことが新たにハラスメントとして認定されている。

 

そのハラスメントにどっぷりつかっている向きにはにがにがしい思いがあろうが、この”ハラスメントに認定する”という行為があってこそ、そうした主に旧来の”既得権?”に公的に/正式に抵抗できる、ということになる。

 

こうした動きは旧来のコミュニケーションが閉じていた、あるいは狭い世界では難しかったと思われ、このあたりがネットで多くの”近くにいるわけではない他人(時には海外)”と連携できる機能があって初めて可能となった。その点は素直に社会の進歩、と言えるだろう。

 

もちろんこの動きには”いくらなんでもそれをハラスメントとするのか?”とか、”いやあ堅苦しい、深いコミュニケーションには必要でしょ”といった意見も出てくる項目があるだろう。だが、私はどちらかというとそういうものをにがにがしく思う方だったので、今の動きにはおおむね肯定的だ。

 

たとえば、ドメスティック・バイオレンス。一方の親が相手の親を殴ればズバリだが、口でののしる、人格を否定する、抑圧し管理しようとする。この行為ではなく、それを閉鎖された家族、という空間で否応なく見せられる子供なども、DM被害者である、とみなされる。こう書けば当たり前のようだが、ひと昔前であれば双方の親のDM問題のみであり、”見せられる”という被行為?は取り上げられなかったであろう。せいぜい”大変だったね”といつの時点でか友人に慰めてもらう程度の経験でしか、なかった。

 

会社でもそうだ。失敗をして罵倒される部下がいたとして、実は部下は馬耳東風、本当にまったく気にしない人間であったとしても。近くでそれを見せられる人間自身が、パワハラ被害者とされる可能性が出てきたわけである(馬耳東風社員がヒヤリングでそういえば、その社員へのパワハラがなかったことになったとしても)。

 

これにより、人格を否定するような説教・訓示はリスク大となるであろう。そうした指導テクニックしか持たない上司は、問題がある、ということになってきた。このようなことは、個人的には大歓迎だ。

 

私は過去、上司の前に立たされて、毎日毎日、何時間とはいわないが数十分、指導訓示時には罵倒を受けていた記憶がある。いやあ、堪らなかった。筋トレにて”馬鹿野郎!!”と悔しさがメッチャパワーになった面はある(´;ω;`)。だが、そんなパワーはいらない(´;ω;`)。

 

そしてある日、その上司の自宅にグループでお邪魔した。家ではびっくりするくらい温和な性格となった上司は私に言った。”いやあ、いつも怒ってスマン。君に怒ることで、グループ全体への指導も含めやっているんだ”。

 

いやもう勘弁してください、と思った。

 

上司はわかっていてやっている。グループの一員(私が一番年上だった)を怒ることで、グループ全体への影響を図っているのだ。

 

いまであればこのケースはあぶない。”見たくもない怒られている人を席で無理やり見せられる”ということは、立派なパワハラ案件になりうるのだ。

 

一例である。基本的にどこかにパワーバランスのゆがみ、一方から他方への嫌な思いをおこさせる行為すべてが、今後はあらたなハラスメントとされていくのであろう。

 

前述したが、私はそうなることはわるいことではない、うまく議論すれば社会は基本的にはよい方向へいくだろう、と思っている。

 

(いやあ、いまおもいだしても、つらかったですね。。もちろん自身にも能力不足、ありましたが。。うまい議論、がPOINTですね)