夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

喪失感と桜の木。

公園と同じく、神社は公的な管理のもとにあるようだ。

詳しくしらないし、調べる気もあまりないのだが、公園のいいところは桜があるところだ。

見渡してみると、一般家庭で桜が植わっているケースはあまりないようだ。

神社もそう。多分公的な土地の扱いなのだろう。

けさ気づいたが(本日記を書いているのは3月末)、毎年無意識に眺めていた桜がないことに気づいた。

通勤途上で、見上げて少し語り掛けるような気もちになる。

これが「桜」だろう。

ソメイヨシノがクローンで風情がない、というご意見も聞くのだが、個人的には大好きだ。たしかこの木には寿命があったはずだが(寿命が短い、という意味です)。

この時期に桜を見上げてあるくと、季節の爽やかさとあいまってとても嬉しくなる。普段当たり前に木が続く、と思っていたが、そうではないことを久しぶりに思い出した。

喪失感、悲しい気持ちであるのだが、悲しい気持ちは深いので、その気持ちを味わっている。

魂がこの身体で感覚からくるものを味わう。

これが「経験」というものかもしれない。

 

思い出してみると、桜の木が喪失すると、そのことを覚えている。

今朝の記憶から2回ほど喪失感を持ったことを思い出した。

社宅近くのグラウンドで何本も植わっていた桜。その下にテントを出して愛でていたなあ。

会社の門の大きな桜。道路拡張で切ることを余儀なくされたなあ。

 

日々接する、あるいは4月にそこに桜があることをしみじみ実感する場所にある桜は、知らず心に残っている。

こころには、いまも咲いているのかもしれない。

(来年はこの桜を見ることができるのだろうか。人はそういう気持ちをいつかすべからく、持つような気がします。そのことを池田晶子さんの著作で、教えて頂きました。そして今朝気づいた神社の伐採された桜。人間がいつも去るものなのではなく、桜もまた去るものなのですね。。)