夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

時の余白。

主な楽しみは最近は読書欄である。

 

文化欄での美術関連、映画情報、すべてではないが連載小説も読む。あ、人生相談は楽しみだ。

 

幼少時、実家では朝日を購読、子供心にどうにも説教臭い、と思っていた。

 

新聞とはそういうものだ、という認識を得、読みたい記事のみを瞬時に選び、読みたくない記事をスルーする力が付いた。

 

いつのころからか、読者投稿欄がどうにも読めなくなった。

 

 

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子供のころはTV視聴の絶対時間が1時間と決まっており、その時間にどの番組を視聴するはとても重要な選択事項であった。日々頭を悩ませていた。結構楽しく、悩んだ。

 

主体的、選択の経験。

 

自己の嗜好もあり、自然にアニメか特撮となる。たまに動物関係のドキュメント。全く問題がなかった。1時間の内容を食い入るように見つめ記憶する。まあ、ほとんど友人との情報共有はできなかった。

 

 

つまり、世間一般情報とのつながりは、TVではなく新聞であったのだ。

 

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ここのところは讀賣だ。

 

 

読書欄は正直朝日のほうがすこしいいのだが、讀賣も悪くはない。

 

 

評者が良い。一時期の小泉今日子は気に入っていた。

 

 

 

そして、”時の余白に”。

 

 

編集委員の芥川喜好氏による、美術界周辺をめぐるエッセイ。

 

 

 

丹阿弥丹波子氏の端正な銅版画が配される。これはメゾチントだろうか。

闇から浮かび上がるメゾチントの手法が、美術、ということばのはらむ沈潜性に合っている。

 

 

 

月一度の掲載であったが、掲載されているのを見つけるとすこし心がときめく。

 

 

池田晶子さんを取り上げられることもあった。

 

 

 

まあ、だから、というか、さらに、というか、好意を持ったわけだが。

 

 

 

2006年の4月からの月一掲載。

 

 

2020年4月25日にて連載が終了した。芥川氏はこの秋で72歳になられるという。

新聞社での勤務形態は把握していないが、やはり特別な待遇ではあったろう。

 

 いつも頭の片隅にあったのは哲学者内山節氏の言葉でした。

 ごく普通の人々が歴史の主人公になっていく思想をつくり出したいと考えてきた氏は、たとえば山村に生まれ、そこで畑を耕して一生を終わる老人の穏やかな表情を見ながら、「このおじいさんの世界を理解できなければ、自分の哲学は人間の持っている何かが分からないままに終わってしまうのではないか」と考えるのです。

 

時の余白に 2020年4月25日 讀賣新聞 ”去るもの、めぐるもの”

 

思い出すのは、池田晶子さんのことば。池田さんもまた、哲学とは市井の老人のなかに、”哲学史”ではなくまさに”哲学”としてあるものだ、とおっしゃっていた。

 

掲載初期のものが、みすず書房からまとめられて本になっている。

 

 世にコレクションと呼ばれるものがあり、コレクターと呼ばれる人がいます。趣味として、性癖として、時に使命として、能動的に物を集める世界です。集まってくる物は、おのずとそこに一人の人間を浮かび上がらせます。集まった物たちが、それを集めた人間を語る。人間の側からすれば、集まった物たちに自分を語らせるーつまり「自己表現」の手段というわけでしょう。

 昭和の民芸運動を主導した柳宗悦は言っています。「集めるものは、物の中に〈他の自分〉を見いだしているのである。集まる品はそれぞれに自分の兄弟なのである。血縁の者がここで邂逅するのである」と。

 

時の余白に 芥川喜好 みずず書房 P.7 ”共生を語る物たち”

 

今までの私は、”いつか自己表現のための糧として、物を積極貪欲に吸収しよう”という意識で様々なものを、愉しく、集めてきた。

 

それはいまでもそうなのだが、最近は”ぼちぼちきちんとアウトプットすべきでは?”と感じることも多くなった。

 

では、コレクト行為は終了すべきなのか。

 

 

うーん、そうではない。従来は物を中心に集めてきたが、この時代、情報を、映像情報含め、集め共有することが、人間間の意識レベルで(つまり海外を含め世界へ)できるようになった。

 

 

そこに、”テイスト”を提示することができる。集めておかねば散逸するかも、といった“使命感”もある。

 

そうした”集めるときの想い”が情報とともに伝わったように思えるときの、喜びもまた、ある。

 

 

これは果たして、”コレクトすることによるクリエイト”になるのだろうか。つながるのだろうか。

 

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芥川氏のエッセイがこれから読めなくなる喪失感はある。が、しかし、氏がその長い美術記者(魅力的な職業である)生活で残された仕事、その紡がれた言葉を足掛かりに、

 

例えば私のコレクト行為がまた、一つのクリエイトとして意識されたりもする。

 

 

氏は連載の最後のタイトルを、"去るもの、めぐるもの”とされた。

 

 

めぐりくる、桜の季節、

 

“今年も桜を見ることができた”の喜び。

 

”来年の桜は見ることができないのではないか”の不安。

 

”私が、見るのか。誰が、見るのか”の彼我逆転。

 

”私が見る、世界が見る、桜が、私と世界を、見る”の”一”感。

 

 

 

この”わたし”もまた、めぐるものであることを

伝えていただいた、気がしている。

 

 

時の余白に

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時の余白に 続

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一か多か。

ヴェーダーンタ神秘主義といわれるものがある。

 

そして鈴木大拙がアプローチした禅。

 

西田幾多郎は大学の講義で、エックハルトを”キリスト教の禅坊主”と称したという。

 

 

この3者(3主義)にわざわざ区別や優劣をつける必要はないだろう。

 

そこには大書されている、”一”と。

 

 

だが言葉である”一”にこだわり、あえていえば引っ張られて取り込まれることがある。

 

一、の発する熱が高いことがあるだろう、やむを得ないことだ。

 

一だから、”多”ではない。一として“ある”から“無”ではない。

 

 

そんなふうに。

 

だがここの”一”は上へも、下へも、水平へも無限(もちろん)に伸びるもの。

 

 

伸びる先も一、伸びてゆくのも”一”。

 

主格転倒、攻守逆転、わたしがあなたであなたもわたし。

 

 

そんな“溶解世界”なのである。

 

 

そこで”神秘主義”の語もまた、語としてのゆがみと弱さをはらむ。

 

 

”神秘”である。まずはこの語。ドクサまみれ、ドクサ自身、ドクサが生まれすぎる言葉であるといっていい。

 

”神”、ですよ?

秘めて、いるんですよ?

 

そして”主義”ですよ??

 

 

日本語が西欧語の訳語として、漢字が元から持つ成り立ちと意味の機能から

有用で、”そもその語を見るとなんとなく意味が分かる”機能があることはよくわかっているのだが、

 

であるがゆえに、”こうだよね”という思い込みもまた、EASYに湧き出る弱みがある。

 

神、といえば(基本仏様と対局にある西洋輸入の神格)となりがちだし、それは”基本自分とは別の思想体系”と思ってしまうこともあるだろう。

 

秘、といえば、自ずから隠れることもあるだろうが、だれかがなにかの意図をもって隠すようにも感じられるし、

 

主義、とくればこれはもう、”日々の食べるため生きるための卑賎でかつ本質的な生きざま”からともすれば”忘れ、没頭し、あるいは逃避する思想生活、という雰囲気をまとう語ともなりうる。

 

だから、”神秘主義”が”一”といっている、ということになると、

 

 

そのことによる”他人事感”が一を私やあなたから引き離すことがある。

 

 

でも、それ、

 

 

そのこともまた、”一”なんですけどね。

上手に失った過去。

そして、どうやら上手に失った過去とは、上手に得る未来らしい。 

 

小林秀雄の言葉 P.147 出典”秋” 17-201

 

時、というものを考える。

 

時はない。

 

永遠の今だけだ!

 

 

などと言い言いしてきたが、果たして真実は奈辺にあるのか。

 

 

将らず、迎えず、応じて而して蔵めず

 

気に入って、何度か引用している荘子の言葉であるが、

 

こちらはするりと逃げる”時”というものの尻尾を、

掴んだ名言だと感じる。

 

そして、多分荘子小林秀雄は同じことを述べている。

 

人は”時を経て”、"この世で””与えられた身体を”“年古”らせる。

 

おおくの前提、おおくのドクサを含む”常識”である。

 

 

だが、だが、そういうことにしておくしかないではないか。

 

 

 

そういうことにする、ことこそ

 

 

もしかすると小林秀雄のいう、”上手に過去を失うこと”なのかもしれない。

 

 

 

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

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池田晶子の言葉 小林秀雄からのバトン

池田晶子の言葉 小林秀雄からのバトン

 

 

 

 

言葉と時。

言葉が人間の発明(ことさら発明しようとしたわけではなく、発生した、というべきでしょうが)であり、

 

もう一つの人間の発明(「2大”発明したと思われてないが大きな”発明」、といってもいいかもしれません)は

 

 

となるのでしょうが、

 

 

 

これを言葉で表すことは、大変に難しいようです。

 

 

難しいというのは、”そもそもずばりではない””様々な意味があり、言葉では尽くせない、あるいは誤解を生む””人により解釈、受け取りが全然変わってしまう”

 

という感じですね。

 

時、に肉薄?する方法としていつもの(笑)鈴木大拙の「神秘主義」にエックハルト

例がありました。(P.106)

 

一と二の間に生を享けている人間を観察することであろう。

その一とは永遠であり、これは永遠に単独で多様性をもたぬ。

その二とは時であり、これは絶えず移り変わりつつあり、

かつ、多岐に分化する傾向をもつ。

 

大拙エックハルトの英訳版、一九二四年にロンドンのジョン・M・ワトキンス出版社によって発行されたC・ド・B・エヴァンスの物を参照した、とあります。

(本考察は134ページ)

 

エックハルト大拙の考え方によると、究極的には上記の二は一に含まれることになるのでしょうが、そのことに到達する前に、時のことを考える必要があり、その為にも一と二の間を”悩みつつ””やむにやまれず””意図することなく気が付けばただいた”人間を観察せよ、ということなのでしょう。

 

 

 

そもそも”生まれた意味”はたぶんありません。

 

 

ここでいう”意味”も難しい。

 

 

 

自分で、自分にとっての意味、ということだと、思うことはできそうです。

 

 

 

ですが、真の意味での”意味”は、たぶん無い。

 

 

 

 

では、意味とはなにか。

 

 

これも考え出すときりがなさそうです。

 

ともあれ、”時”に肉薄するこの考え方に沿って、エックハルトが「無所得」と題するもうひとつの説教で続けていいます。

 

・・・・それゆえ、私が私自身の最初の因(もと)である。つまり、私の永遠の存在と、私の暫時の存在の双方の因なのだ。これを目ざして私は生まれたので、私の生誕が永遠であるお陰で、私は決して死ぬことはないであろう。私が永遠にこのようなあり方を(原文”ありかたを”の上に強調点あり)今日までしてきた(原文”してきた”の上に強調点あり)のも、今こうして現に在る(原文”在る”の上に強調点あり)のも、また永遠にこのようなあり方を続けるであろうことも(原文”このようなあり方を続けるであろう”の上に強調点あり)みなこの永遠の誕生の本質によるのである。

  P.107 鈴木大拙 「神秘主義

 

 

 どうでしょうか。

 

最近わたくし、この”エックハルト節”ともいうべき記述に接すると、

すこし酩酊、というかクラクラ、というか、

 

あるいは”めくるめく”とでもいうのか

 

まあよくわかりませんが、ふらつく感じがあります。

 

 

池田晶子さんが”リマーク”の中で、後ろ頭から真実に水没する、という感じの

記載をされていた気がしますが(原文また探します)、

 

それはもしかしてこのような感じなのでしょうか。

 

 

濃厚な真実濃度を持つ考えに接し酩酊する。

 

 

まあ、”私”が”真実”と感じるだけなのですが。。

 

 

 

では、”私とはだれか”。

 

 

往って、還る前に、悪酔いしそうです。。。

 

 

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

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  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
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リマーク 1997-2007

リマーク 1997-2007

  • 作者:池田 晶子
  • 発売日: 2007/07/03
  • メディア: 単行本
 

 

 

REMARK―01OCT.1997~28JAN.2000

REMARK―01OCT.1997~28JAN.2000

 

 

 

仏教の”空”は、相対的次元の話ではない。

 

仏教の”空”は、相対的次元の話ではない。

 

と、大拙は説く。

 

それは主観・客観、生・死、神・世界、有・無、イエス・ノー、肯定・否定など、あらゆる形の関係を超越した絶対空である。

仏教の空性の中には時間も、空間も、生成も、ものの実体性もすべてない。

それらはこれらすべてのものを可能ならしめるものである。

それは無限の可能性に満たされた零であり、また、無尽蔵の内容をもつ空虚である。


P.53 鈴木大拙 神秘主義

 

あらためて訊かれると、「知らぬ」というより他ないが、訊かれもしない時は知っているのだ。

 

と、聖アウグスチヌスも云っている。

 

言葉は、時間とともに、人間が発明したものであるという。

 

発明、というが、意識したものでもなく、自然発生的に”そのほうがいいもの”ということで生まれたのであろう。

 

 

時間、という概念を眼前にすると、それを知った人間は知らない前の人間には戻れない。

 

それは”進化的退行”というものかもしれない。

 

 

その退行性、パンドラの箱性(行けば戻れぬ)を指して、あるいは過去の叡智は

失楽園”、つまりエデンからの追放、”有限の命”という考えの虜囚、ということを

伝えたように思う。

 

 

言葉もそうだ。ほとんどすべてのモノを、表現できる、と思われている(誰に?)。

 

 

それを書き言葉とすれば、”行間”をさえ、読むことができる。

 

書かれていないものを、読むとは。

 

そしてウィトゲンシュタインの言った、”語りえないものについては沈黙せよ”。

 

 

これはすべてのものが言葉で表現できると、つい、普通、思ってしまうことへの気づきだ。

 

気づかせ、ではない、気づき、だろう。

 

 

時間により、有限なる命が生まれ、

言葉により、万能感を持つ限定人が生まれる。

 

さて、そのような次元に忽然と浮かび上がるのが、例えば”空”。

 

例えばというのは、同じものを別表現できるからだ。

 

 

一。道。全。神。

 

同じ、というが、同じという次元にはないものたち。

 

これが端的に言葉のゆきどまりを示している。

 

 

のではあるが、それはさておき。

 

 

空、である。それは虚無の“虚”をとった無、に近しい。

 

虚無を恐れる西洋の精神に、空、という考え方はどのように思われたろうか。

 

マイスター・エックハルトは言う。

時、身体、そして多様性を越える時、われわれは神に到達するのである。

P.101 鈴木大拙 神秘主義

 

聖アウグスチヌスは言う。


換言すれば、現在が存在しなくなるという差し迫った状態によることなしに、
われわれは時が存在するなどということをまともに言うことはできないのである。

P.106 鈴木大拙 神秘主義

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 さて、大拙の幼少時からの盟友、西田幾多郎の言葉にこんなものがあった。 

 

西田は弟子に「これがよくもあしくも『私の生命の書だ』と云って神の前に出すものをおかきなさい」ということも言っています。

P.52 浅見洋 致知 2020.8号

 

師匠は、弟子に、技術はもちろんだがその前に、心や心構えを教えることになる。

 

目の前にいる弟子のみではなく、あるいはその弟子を通じて、我々のまえにも

師匠として眼前する。

 

私の生命の書。

 

 

池田晶子さんはおっしゃった。”すべての言葉が絶筆です”。

 

常に生死を賭して生きること。そのすごみを西田や池田さんから教えてもらう。

 

だが、それは青年期、の中にあるものは除外される。

  

吉本隆明は若い小林秀雄の苦難を、自らが編んだ選集の解説にて

我がことの如く感じてこう評した。  

 

誰にとっても青年期は奇怪な観念である。

  小林秀雄集解説 1977年

 

青年は、”生命の書”を”死を賭して”神の前に示すことを、あるいは暫時、猶予されるのかもしれない。

 

暫時?時?時間???

 

猶予はされない。

 

 

されないが、されたと時間のない今という永遠で思い、”その代り”努力することに、

 

 

なるのである。

 

 

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

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  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
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自分はたいしたことがないと思わねばならないと思うバイアス.

引き続き鈴木大拙神秘主義”を読んでいる。

 

池田晶子さんは自らの著作群を評して、”どこをどう切っても金太郎飴のように同じことを述べている”とおっしゃっていたと記憶する。

 

これは全く卑下ではない。

 

高らかで誇らかなる宣言である。

 

”いつも真実が私の口をとおして表出されている”。

 

鈴木大拙のこの本でも同様の感想を抱く。

 

どこをどう切り取っても、どこから読んでも、ともすれば大拙が書いたところ以外の
解説文の中にも、

 

真実が真実として、在る。


宇宙自体の自己表現への欲望、自然自体の自己表現への欲望を共有しているからこそ、
われわれは猫をはじめとする動物にも、植物にも、鉱物にも、自らを見出し、また自らのうちに動物を、植物を、鉱物を見出すことができるのだ。

それが「輪廻」への根拠であり、「輪廻」の現実なのだ。

如来蔵」としての「心」が創造への欲望に、渇愛に、「慈悲」に満ちる。そこから森羅万象あらゆるもが産出されていく・・・・・。

p.366 鈴木大拙 神秘主義  安藤礼二による解説より

 

本書の位置づけをこの解説の中で安藤礼二は続けてこう位置づけている。

”師たちから引き継いだ思想の宗教的な完成のみならず哲学的な完成を示している。
そして、それは日本という固有の問題を超えて、世界という普遍の問題の前に大拙を立たせることになった”

同上


日本という固有の問題。

世界という普遍の問題。

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日本という固有の問題、に先立つ”つまずき”はなんだろうか。

 

自分はたいしたことがないと思わねばならないと思うバイアス

烏滸がましい

あまりにも尊大だ

誇大妄想(場合によってはここに“狂”がつく)

→だから悪いことはいわない、そんな考えはやめておけ。

 

そもそももとから宗教的意識の少ない/無い日本人の中で”私は神の一部であり、全であり、一である”ということは、


たぶん生まれついてキリスト教イスラム教の家族に生まれる人々とはまた違う感想をもつものだろう。

 

たとえば上記のような。

 

だが、言ってしまえば、これは自己保全を図るエゴの”自己収縮”である。

 


世界の前に、日本の前に、”個人としての卑近な問題”の前に私は/皆さんは/我々は
立つ。

 

神の一部であり、一部は一であり、全でもあるということは、

別にわたしがあの”白髪の雲の上の杖をもちロープを羽織る存在と
同じであり、すべてを意のままにできると思う”ことではない。

まったくちがう。


ただあることで、あることの一部であり、全である、ということだけなのだ。


有と無の境界のないこの森羅万象の中で、ただ在ること。


境界はないので、彼我はない。


濃淡の差、ありかたの差。そのときの“差”は違いではなく、

おんなじだけどちょっと濃い、薄い、位。


といったレベルの話になるのだろうか。

 


個人、日本、世界、そして森羅万象。


そこにある問題の前に、すべからく”存在”は、


対峙している。

 

?なんのために?

 

 


神の遊戯のため、というのは、


果たして本当だろうか。真実なのだろうか。

 

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

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  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
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時とはなにか。

引き続き鈴木大拙神秘主義

 

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

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  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
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 時、時間について書かれた箇所でまた、

 

ひっかかっている。

 

 

 

ひっかかる、というか、読み飛ばせない、という感じか。

 

 

 

現在には、過去と未来が含まれ、そしてそれは”永遠”と呼ばれる。

 

遠い過去と近い過去と、遠い未来とは無い、あるいは”現在にある”。

 

時、はない。

 

 

まあ、普通に考えれば素っ頓狂なこのような物言いが、大拙エックハルト

仏陀や聖アウグスティヌスによってなされている。

 

そのことがつまり、”悟り”といわれる状態である、とさえ言われている。

 

そんなに簡単でいいのだうか。

 

 

 

万物は流転したり、一は全であったり、多様性とは錯覚であったり。

 

これまた”論理的理解”の極北にあるような気がする”絶対真理”だ。

 

そんな簡単でいいのだろうか。

 

 

いいかもしれないなあ、と思っている。

 

なんとなく、そう思っていると、気分がいい、

 

という感覚からの心持ちのようなのだが。

 

 

WIKIPEDIAでマイスター・エックハルトの項を見た。

 

神と被造物
エックハルトは、神はその源初において無というほかはないと述べる。この状態で神は安らぐことがない。神からロゴス(言葉)が発し、被造物が創造されることによってはじめて神は被造物において自分自身を存在として認識する。
この時の被造物に対する神は唯一の存在であり、それに対する被造物は無に過ぎない。被造物は神に生み出されることによって存在を持つのであって、被造物それ自体ではまだまったく持っていない。被造物はそれ自体では存在すらできない純粋な無である。
神は生むもの、被造物は生みだされたもの。この両者はアナロギア関係にある。アナロギア関係は次のようにたとえられる。「健康な尿」という言葉があるが、尿それ自体が健康であるということはない。「健康な生物」がそれを生み出したから尿が健康だと言われるのである。被造物における「善き者」などもそれ自体が善いのではなく、「善性」がそれを生み出したから善いと言われる。神がそれを生み出したから被造物は善き者であることができ、知性を持つことができ、生きることができ、存在することができる。だから被造物において絶対的に義なるものはありえない。善い意志を持とうとする被造物の側からの努力もエックハルトにとっては空しい試みである。では、被造物にできる最高のこととは何か。それは無に徹することだとエックハルトは言う。無のうちには最大の受容性がある。「あれ」「これ」といった特定の存在が消え去る純粋な無の中にこそ純粋な存在たる神が受容される。「我の無」すなわち「神の有」。神は充溢した存在そのものであるからその本性からして無に存在を注ぎ込まずにいられない。神は被造物と気まぐれな関係をもつのではなく、本質的に被造物と関わっている。神はその本性からして私(被造物)を愛することをやめることができないという。
無になることの重要さをエックハルトは繰り返し説く。板の上に何かが書き込んであるとして、そこにいかに高貴なことが書き込まれていようとも、その上に更に書くことはできない。神が最高の仕方で書くには何も書かれていない板が最適であるという。極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら創造の以前より存在する魂の火花が働き、魂の根底に神の子の誕生(神の子としての転生)が起こる。
しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまう。

 

  引用:WIKIPEDIA マイスター・エックハルトより

 

 さて、このWIKIPEDIA にも記載があるが、そもそも教会の一員という立場で、人と神の一致を説くことは、あるいみ仕事、職責、生きるための手段でもある教会というものが不要となってしまうため、異端、として粛清抹消されることは見えているだろう。

 

同様にグノーシス主義も、人の中に本来の神の要素があるとしたため、同様に教会から抹消されているからである。

 

教会がその存在を否定されるために異端として粛清することは、まあわかる。

 

例えは変だが、日々もちあるく携帯の機能で撮影ができれば、単体の機能しか持たないカメラが駆逐され、その存在感を減らすように。

 

少々飛躍するが、いわゆるAIが現在人類が実施している機能を補完代替することにより、人類のすべきことは”生老病死”の一部としての”生”をただ楽しむ存在として、数百年、千年単位ではたぶんとても長命化した少数の存在となってゆくように。

 

グノーシス主義を、マイスター・エックハルトを、教会がそのタイミングで”その時生きている教会構成員にとっては”殲滅できたとしても、

 

その思想は、こうして大拙に、正しく見いだされている。

 

引用のWIKIPEDIAの最終部分で、記載者はこう言っている。

 

しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまう。

 

 

そうなのだ。自分たちがお役御免だから、異端として抹殺する。

 

しかし、

 

その思想はどうなのか。

どのように位置づけ、評価するのか。

 

評価は行えない、というか行えば”たぶんわれわれは存在意義をなくす”。

 

 

として抹殺した事実こそ、この思想のすくなくとも本当らしさを示すものではないか。

 

そう感じる。

 

同じくWIKIPEDIAアウグスティヌスの項も読んだ。エックハルトは3世紀に生きたこの聖職者の思想に影響を受けたという。

 

アウグスティヌスの時間意識は、”神は「永遠の現在」の中にあり、時間というのは被造物世界に固有のものである”というものだったという。

 

被造物、という考え方は、ほぼ同時代のプロティノスの「流出説」に影響を受けたもののようだ。「万物は一者(完全なる一者 to hen ( ト・ヘン))から流出したもの」。

 

高度純粋な世界から、低次で物質的なこの世界の、被造物としての流出。これの逆を行うことで、高次世界への帰還ができるとプロティノスは考えたようだ。

 

これはグノーシス神話の骨格とほぼ同じ気がする(プロティノスグノーシス主義を批判したとのことだが、この理由は個人的にはまだ理解できていない。なんとなく”自分の思想を横取りするな”ということのような気もするが=プロティノスさん、すみません)。

 

大拙が引用しているアウグスティヌスの時間に関する部分を見てみる。

(引用ですが、個人的に読みやすくしたくて、段落等は変えています)

では時とは何か?

もし誰も私に訊ねなければ、私はそれを知っている。

でも、もし質問者に説明しようとすると、私は知ってはいない。

 

しかし、私は次のことは自信をもって断言できる。

すなわち、もし何も過ぎ去ることがなければ、過ぎ去った時などはないことになろう。

そしてもし、何もののやって来ないならば、未来などはないことになろう。

そしてもし、今何も存在しないならば、現在もないということになろう。

 

では、過去も、もはやなく、未来もまだ来ていないなら、過去と未来のこれら二つの時はどういうことになるのか?

 

しかし現在という時は、もしそれが常に今あるままに留まり、決して過去に移行することがないならば、全くそれは時ではなく、永遠であろう。

 

もし現在という時が時ではないのに、ひとえに過去に移行するからというだけで、存在を獲得するならば、どうしてわれわれは現在もあるということができるであろうか?

もしそうならば、現在がある理由は、現在が現在でなくなるからだということになろう。

 

換言すれば、現在が存在しなくなるという差し迫った状態によることなしに、われわれは時が存在するなどということをまともに言うことはできないのである。

鈴木大拙 神秘主義 P.105  聖アウグスティヌス「告白」11章14節

 

いや、読んでいて少々というかだいぶこんがらがるが、そもそも冒頭で聖アウグスティヌスは言っている。”でももし質問者に説明しようとすると、私は知ってはいない”。

これは、言葉、というもの(言葉とはなにか、ということも大拙はこのあと考えているが)で時や永遠や神を捉え表現しようとすることのむつかしさを言っているのだろう。

 

ソクラテスプラトンプロティノスグノーシス主義、聖アウグスティヌスエックハルト鈴木大拙

 

脈々とつながる思考の流れを感じるところである。