夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

光から由来する光。

鈴木大拙神秘主義」を引き続き拾い読みしている。

 

東西の叡智、仏陀エックハルトを比較する、というよりは、

二人が同じ結論に至っているということがわかる。

 

特にエックハルトキリスト教の中で異端として扱われるリスクを

賭しての説教であったのだろう。

 

つい書き写したくなる箇所が多く、なかなか読み進められない。

読み進めるのが、惜しい気もする。

 

書き写すことで、ただ読むのとは違う形で文を味わえる。

そして自分の字で書かれたものを読むことは、活字を読むのとは

また違った味わいがある。

 

そして自分の字であることは、読みやすい、頭に入りやすい、という

感覚もある。

 

ランダムであるが、以下気になった文を引用してゆく。

 

一部自分の覚え、も交じっている点、本来はまずいのだろうが

ご容赦願いたい。

 

 

”勝利の賛歌” 悟りを開いた仏陀が発したものとされる

この仮小屋の造り主を求め歩く時、
いくたびかの生を経巡っても
私の努力は無駄ごとに終わってしまった。
そこでくり返し受ける生の何と退屈至極なことか。
されど今や仮小屋の造り主たる汝は突きとめられたのだ。
汝は二度と再びこの仮小屋を建てぬであろう。
屋根を支える垂木も皆毀れてしまった。
棟木も打ち砕かれてしまった。
永遠に近づきつつある心は
あらゆる欲望の終滅を達成したのだ
  

P.79

注)大拙解釈では、”永遠に近づきつつある心”とは、
”自己を条件づける集合体(sankhara)への捉われからすかり自由になった心”のこととした。


sankhara :諸行無常 サンカーラ
panna :パンニャ 般若の語源。智慧(知恵ではない)
dhamma:ものみなすべて。ダンマ。ダルマ。宇宙の法と秩序

 

 神は深い静けさの中で、自らを照らしている光だ

 エックハルトの言葉   P.75  

時(ZIT),身体(Liplicheit),そして多様性(manicvaltikeit)を超える時、われわれは神に到達するのである。

 エックハルトの言葉   P.101 

私が神を見ている眼は、神が私を見たもう眼と同一である。
私の眼と神の眼は一つの眼、一つの影像、一つの智、一つの愛である。

 エックハルトの言葉   P.88 

知性の役割は、自らを超えたいろいろな種類の問いを提出することによって、心をより高次の意識の場に導くことにある。

     P.85 

 

父なる神の言葉は、彼の自己理解に他ならない。
父なる神の理解していることは何かと言えば、自分が理解していることが
分かっていることを指し、自分の理解が分かっているということは、父なる 神が理解の根本主体であるということに他ならぬ。
つまり光から由来する光なのだ。

 エックハルトの言葉   P.75  

よって、さとりの体験というものは、心理学の世界を超え、般若の智慧の眼を開き、 そして、究極の実在の領域を洞察し、輪廻の流れの彼岸に着地することを意味している。
その到達する世界においては、すべてのものがありのままに、汚れのない在り方で 眺望できるのである。
この時こそ人はわが心が、すべてのモノから解放され(sabbatta vimuttamanasa)てあることに気づくのだ。
このとき彼は、生死や無常や未来・過去・現在といった思いに少しも振り廻されることがない。

     P.76  

このように目覚めた人は相対を絶する征服者であって、何らかの足跡を遺さぬため、
誰もその足跡を追うことはできぬ。

彼の住している領域には際限はなく、それはあたかも、円周が無限である円のようなものである。
それ故、道をつけられるような中心もない。

このような姿が、禅では無功用行(anabhogacarya)(はからいのない、目的意識を離れた、無用の人)として描かれている人間像である。
これは”何ものにも執しないし、その人を何ものにも執することのない人”(エヴァンス訳、146頁)と定義されるエックハルトの自由人に相当する。

    P.77  
 

 

ソクラテスプラトングノーシス神話、老子仏陀、禅仏教、エックハルト

さまざまな人々が同音異曲といった体で、生老病死を語ってきた気がする。

 

たぶん、言葉というものの不確かさで、正確には把握しきれないものなのだろうが、

見ていた風景、見ている真実はたぶん同じものだったのだろう、と

 

感じている。

 

 

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
  • メディア: 文庫
 

 

所有からの逃走。

エーリッヒ・フロムの”自由からの逃走”。

 

得るべきもの、望ましいもの、と感じられ、”他人”もそう思うだろうと”思われる”、

「自由」。

 

それが与えられ、いわゆる”これが自由”と思われる事々に面したとたん、

”自由という状態”が要求してくる”義務のようなもの”や”やらないと自由が続かない”

ことごと。

 

それらに取り込まれ、かかわり、疲弊するなかで、

”自由でなかった”時と同じか、場合によってはそれ以上の

”しんどさ””めんどくささ”がありますよ、

 

と書かれているというのが個人的な理解である。

 

 

いまこの”日本国”では、そのような”義務を伴う全面自由”より、

 

”自由ということにはなっているが、いろいろルール等が与えられ過ごす部分的自由”のほうがより快適で、住みやすい、

 

となっているように感じる。

 

 

他人ごとのように、”日本国”、などと言ったが、

まず、私が、そうだ。

 

”自由であるための義務”のようなものがある、自由であることは犠牲も伴うのだ、といわれれば、

 

個人的に感じるのである。

めんどくさい、と。

 

だが、ここで”めんどくさい”と思えるのは、

特殊な日本のたまたまな状況の所為で、

”めんどくさい”と思うことこそ”めんどくさい”のかもしれない。

 

ここ最近は、私、この”めんどくさい”を触覚化して、生きている感がある。

 

 

たとえば、

格闘術の師匠が、弟子に問われ答える必勝法は、すべからく”逃げること”なってである。

間髪を入れず、逃げる。

逃げることにしておく。内面化しておく。

 

たぶん、逡巡が命取りなのだろう。

逡巡は、プライドから生まれる。

 

”相手にある程度は抵抗できる”

”それくらいできないと恥ずかしい”

”せっかく格闘技を習っているのに”

 

弟子の心にあるのは、”比較”。

比較してより強者でありたい、というエゴ。

 

比較、という考え方は、私とそれ以外、という二元論がベース。

一元論のほうがいいと、今の私は思っている。

 

 

池田晶子さんもまた、こうした”めんどくささ”(池田さんは”思い込み””ドクサ”というふうにおっしゃっていたが)に意識的であられた。

 

たまさか、この世に、特に意味なく、属性、”日本人、女性”として生まれたが、本質はそうした属性には関係がない。

 

 

名前ももちろん単なる属性として

”池田某(なにがし)”と名乗られた。

 

はじめは意味がわからなかった。

 

そうした”思い込み”とは、物心がつき、この世で生活するなか、

なんとかこの生を意味があるということにしておくための苦肉の設定、というようなことだろうか。

 

これは池田さんの”神論”である気がする。

 

神、というときに、雲の上にいる白い髭の老人(なぜかだいたいは頭髪がある(笑))をイメージすることも、

 

同じく”物心以降の文化”による癖、であろうが、

 

そっちの神は、あえていえば偽神、言い過ぎであれば、”この世界を作りたもうた下位神”、そういうことにしておこう、という方便のようなものだとも言えようか。

 

 

”上位の神”には、考えや意思はない。

 

 

いわゆる、全であり、一であり、”無のない、あるいは無を含む有”である。

だから本当は”下位”や”上位”もない。

 

 

そこでいう”神”は別にこの世でいう”意識“”意向”はない。

 

 

 

 

ただ、そうある。

 

必然もない。

 

意思もない。

 

希望もない。

 

 

 

ただ、そうなった。そうなっている。そうなのだ。

 

 

それが”世界”。

 

 

 

タイトルに挙げた”所有”であるが、

所有には、所有したい、所有した、所有を続けている、という状態がある。

 

所有を失う、もある。

 

 

”自己収縮”を感じる。

 

 

モチベーション、という向きもあろうが、所有したい、に絡み取られ、

所有すればその喜びは長くて数年で薄れ消失し、

 

新たなものが欲しくなる。あるいは失くすことを恐れる”地獄”が待っている。

 

 

 

こうした所有の”めんどくささ”に人が気づき始めている。

 

 

例えば、クルマ。

 

 

 

或は、”断捨離”すべき、所有物。

 

 

実生活では断捨離には程遠いところにおりますが、

 

断捨離とは

”わくわくするもの”と”わくわくしないもの”にわけ、”わくわくしないもの”を捨てましょう、ということだと理解している。

 

 

 

たしかに、いい。

 

ここには”手放す”があり、心が軽くなる。

 

 

 

本来特に目的もなくこの世に”生まれてしまった”われわれであるが、

 

それではあまりに”寂しい”ので、

人はさまざまな目的や所有を”作り上げ”る。

 

 

生きるのに最適化した、知識、それをわかりやすく提示・表示・誇示する”学歴・資格”。

生きるのに最適化した、身体。健康。力。美貌。容姿。

生きるのに最適化した、住居、婚姻関係、家族(含む子孫)。

生きるのに最適化した、装身具(含む”ライフスタイル誇示”であり移動手段でもある車等)。

 

 

そして、そうしたことがらを以て、”生きること”に付加価値を付ける。

 

 

人生の初期には、衣食住の獲得とその高級化。

 

次のステージでは例えば”人類への貢献”、

 

”世のため人のために”

”生まれてきた以上、この世を去るときにすこしでもこの世を良くしていたい”

 

といったものを目標にする。

 

 

 

すばらしい、”人生の目的”。

 

 

 

しかしながら本当は、”生きている、という状態を所有し、経験しているだけ”

なのかもしれない。

 

 

 

生といっしょにある”死”。

 

 

死は、生と表裏一体、生があるから死がある。

 

 

はたしてそうか。

 

 

生も死も、時もこの世も、無いのだとしたら。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

いまの世代は”実”所有にはこだわらない。

 

 

クルマ? いらない

 

服? いらない。

 

結婚?子供?  いらない。

 

 

ここでいう”いらない”には、あってもいいし、あったらもしかして嬉しいかもという

希望はあるのだろう。

 

 

だが、当たり前のものだから、みんなが持ってるから、というのは無くなってきた。

 

 

 

代わりに来ているのは、足るを知ること、知足、なのかもしれない。

 

 

 

 

いまあるものを慈しむ。

 

 

そして唯一間違いなく持っているものとは、

 

 

今、ここにある生、だけなのかもしれない。

 

 

 

 

しかし池田さんはピルグリムで見つけた墓碑銘を引用して

 

おっしゃった。

 

 

 

”次はお前だ”

 

 

 

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

 

 

 

 

 

直線と曲線。

鈴木大拙 神秘主義の中に、仏教の教えと美術との関わりを示そうと試みた、とする部分があった。

 

大拙のこの本は基本的にいわゆる”西欧人”向けである。聞き手は西欧人であるので、仏教や東洋の考え方は基本皆無である、として語られる。

 

これがいい。

 

"私”の中を振り返ってみると、いわゆる体感、実感として仏教や東洋が大拙が日本人ならこれくらいは知っていそうだ、と推察されるほどは全然ない。

 

知識がない、というよりは、身近な感じがしない、文化としてしみ込んでいない、薫蒸していない、という感じである。

 

なので、大拙により西洋人向けに英語で書かれたものを翻訳された文が、逆に読みやすい/多分理解しやすい。

 

残念だ、などということをいう人がいるのかもしれない。だが、”こうあるべき”というのは比較の言葉だ。誰が/何がこうだからこうすべし、は、無い。

 

思えば少々時代、気が付くと翻訳ものを手にしていた。小学校中学年時の愛読書はヒュー・ロフティングのドリトル先生

 

井伏鱒二(下訳者があったようだが)の確か名訳だったと思うが(記憶はあやふや)、どこかで翻訳文は日本語としてどうか、といったコメントを読んで、不思議に思ったことを思い出す。

 

もちろん、元の言語にひきずられ、語法や語感が自由にできない面もあるのだろう。しかしそれがゆえに”伝えよう”とする意識がある。読みやすさを求める努力があるだろう。

 

そのことをかずかずの翻訳物語(主にファンタジーであったが)を読んできて、それがどうやら日本語で物語(くどい(笑))を書く書き手のやっかみや偏見であるようにも感じたものだ。

 

東洋の考え方というのは、芸術家が魂を把握すると、その作品が色や線を伝えるもの以上の何ものかを表し出すのだ。真の芸術家は、一人の創造主であり、模倣家ではない。彼は神の創作現場を訪れて、創造、つまり、無から何ものかを創造する秘訣を習得したのだ。

P.59  鈴木大拙 神秘主義

 

それは心を、”空”、すなわち、ありのままに相応させておくことで、これによって対象と対立している人が、その対象の外にいる存在であることを止めて、その対象そのものになりきってしまうのである。 

 同P.60

 

対象が自らの絵を画くのだ。魂が自己に映った己れを見るのだ。このことは自己同一の場合も同様である。 

 同P.61

 

 大拙は、東洋の絵は魂をまず理解し、形は自ずから形成される、とする。一方で西洋の絵は形を強調し、形を通じて魂に到達しようとする、とする。

 

 さきほど翻訳の話をした。私はつたない絵を画くが(版画)、作画の技法もどちらかというと大拙のいう”西洋流”にて学んできた気がする。”形あるところに魂を入れる”。

 

 いろいろ逆転してはいるようだが、つまるところは、つまり本質は変わらないのだろう。

 

すなわち、芸術家の心得ている直線は、数学者にとっての直線とは異なったものである。つまり、芸術家の想う直線は、曲線と渾然一体となった直線なのだ、と。

 同P.61

 

直線と曲線は、考えてみれば境界はない。まっすぐ、と曲がっていることとの差はない。これは例の、いわゆる、無境界だ。無意識にものごとを区別して二つにしている考え方。差を、比較を、差異を餌にして生きるエゴ、の考え方。

 

まあ、曲線、直線にそこまでのドクサはないのだが、”まっすぐに画こう”という思いには気をつけるほうがいいだろう。

 

しかも、どの線にも、”次元の緊張状態”として知られているものがなければならない。活きている線というものはどれも単に一つの次元にあるものではなく、それは血の通ったものなのだ。すなわち、三つの次元に亘ってものなのである。 

 同P.62

 

どうしようもなく絵で表現したくなる思いがあるのは、そうした本来の線描がもつ3次元創生の魅力の所為であるのだろう。私が線を描くのか、線が私を画くのか。果たしてどちらだろう。

 

鈴木秀子氏が詩人、坂村真民の詩を紹介されていた。

 

よい、詩だとおもうので、自らの覚えも兼ねてここに転記させていただく。

 

鳥は飛ばねばならぬ

 

鳥は飛ばねばならぬ

人は生きねばならぬ

怒涛の海を

飛び行く鳥のように

混沌の世を生きねばならぬ

鳥は本能的に

暗黒を突破すれば

光明の島に着くことを知っている

そのように人も

一寸先は闇ではなく

光であることを知らねばならぬ

新しい年を迎えた日の朝

わたしに与えられた命題

鳥は飛ばねばならぬ

人は生きねばならぬ

 

 

念ずれば花ひらく

 

念ずれば

花ひらく

 

苦しいとき

母がいつも口にしていた

このことばを

わたしもいつのころからか

となえるようになった

そうして

そのたび

わたしの花が

ふしぎと

ひとつ

ひとつ

ひらいていった

 

茶の花

 

茶の花が

もう咲いている

垣根に

かすかに

ほんのりと

 

わたしも

ひさしぶりに

お茶をたてよう

ひとりしづかに

しんみりと 

 

鈴木さんは、部屋のどこかに貼って、こころを空にして繰り返し読んでみてはとおっしゃる。

 

良き詩を、紹介していただいた。

 

 

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神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
  • メディア: 文庫
 

 

道。

この言葉を“真理””究極の真理””ロゴス”の意味に用いるのは、道教の人たちである。老子は『道徳経』の中で、この言葉に次のような定義を与えている。

 

道とは満たされることを何ら必要とせず、

しかも、そこからいくらでも内容を取り出せる空の器のようなものである。

それは底がない。

しかし、世界中のあらゆるものの始祖である。

・・・それは、決して干上がることのない深い淵ようなもので、それが一体誰から生まれたのかは知らぬ。

あたかも、神に先立つ存在ではないかとさえ思われる。

 

鈴木大拙 神秘主義 P.37

 

孔子のいう”道”と老子の言う”道”が違う、というのは結構皆さんが認識されていることかもしれない。

 

老子の”道”は”タオ”とルビが振られることも多い気がする。

 

孔子の道は、どちらかというと、そう、“孝行道””子としての礼節”、こうあるべき、という追及の心構え、といったようなニュアンスか。

 

老子の”道”が、人間を造りし神、が生まれたもの、エックハルトのいう神性、と共通の意味があることを知った。

 

やはり、思想の行きつくところは、同じ源であるのだろうか。

 

 

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
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禅と日本文化 (岩波新書)

禅と日本文化 (岩波新書)

 

 

時間を忘れる、時間を離れる。

活動と時間がセットである、

 

という認識はいつ得るのだろう。

 

 

自分、という意識、いわゆる自我意識が”芽生える”3歳ころだろうか。

 

 

子供に親は、”この世でのルール”の一番めのこととして

 

 

時間内にこれをやるべし、

 

時間内に起きましょう、

 

食べましょう、

 

寝ましょう、

 

 

 

ということを教える。

 

 

自我、”自分”とは、時間と伴走する存在のことなのだ、

 

 

とまずは学ぶ。

 

 

”人”として。

 

 

 

 

 

しかし”時間”が単なる決め事、”思考上の発明”、

 

 

そうということにしておきましょうマター、

 

 

 

 

であるのなら。

 

 

どうだ。

 

 

 

いやいや、

 

 

 

どうだと言われましても。

 

 

 

フロー時間というものがある。

 

 

フロー感覚ともいうのかな。

 

 

 

 

いわゆる”時を忘れて没頭する”というやつだ。

 

 

 

”三昧”ともいう。

 

 

 

 

人は創作の喜びに没入するとき、

 

 

時をわすれることがある。

 

 

 

 

あれ、これだけしか時間が経ってないの?

 

 

もしくは、

 

 

 

あれ、こんなに時間が過ぎたの?

 

 

 

 

ということがある。

 

 

 

 

これは、

 

 

 

幸せだ。

 

 

 

 

人としてあってよかった、と感じる。

 

 

 

小林秀雄が学生との会話でこのように言っている。

 

 

だから、どうして宣長までたどり着いたか、確かなことは言えません。ただ、感動から始めたということだけは間違いない。感動というのは、いつでも統一されているものです。分裂した感動なんてありません。感動する時には、世界はなくなるものです。感動した時には、どんな莫迦でも、いつも自分自身になるのです。

 これは天与の知恵だね。人間というのは、そういう生まれつきのものなのだな。感動しなければ、人間はいつでも分裂しています。だけど、感動している時には、世界はなくなって、自分自身とひとつになれる。自分自身になるというのは、完全なものです。莫迦莫迦なりに、利口は利口なりに、その人なりに完全なものになるのです。つまり、感動している正体こそが個性ということですよ。 

 

P.151 小林秀雄 学生との対話 新潮社

 

ここで小林のいう、世界がなくなる。分裂した人間が感動で自分自身と一つになれる、という感触は、時を忘れ、自分もわすれ、自分がいわゆる”THE WORLD"になる、なるというのか、そうであることに気づく、そうであったことに還る、というものだと思う。

 

逆説的だが、小林は言う。それが個性だ、と。

 

 

 

個性とはであれば、自分と世界があるのではない。世界が自分であり、

 

 

自分が世界であること。

 

 

 

個性の"個”はつまり、他者との区別、集団の中の”個”を示す語ではない。

 

 

唯一の、全部の意味の”個”、

 

 

なのだろう。

 

 

 

引き続きエックハルト&池田さん。

エックハルトは、神と神性を区別した。

 

神性の内にあるすべてのものは一つである。そして、このことについては何も言うべきことはない。神は用(はたら)きたもう。しかし、神性は用かぬ。 

 鈴木大拙 神秘主義 p.34  エックハルトからの引用部

 

エックハルトにとって、神性とは”動かぬものであり、そこに到達するいかなる道もない(apada)ところの無なるものであることに気づくのである。それは絶対の無であり、それゆえ、そこから万物が由来する、存在の根底なのである。(P.33)

 

ここでいう”神性”、これは池田晶子さんがおっしゃる"故郷(ふるさと)”に近しいものだろう。池田さんの本を読んで、故郷に帰りたいと書いてよこした読者への返事として池田さんはおっしゃる。

 

”池田先生も故郷に帰りたいのですが、生まれてしまった以上もうしばらくは(真実を池田某といいう口から”巫女的に”世間に伝えるという)続けたい”と。

(すみません、ここの記載は私の記憶からの引用になります。大体ことのようなことをおっしゃっていたなあ、という。。だがここ、先生だと奉られることを嫌がった池田さんだが、青年の思わずの吐露の”池田先生”に対し、あえて笑って受けてくださっているこの感じ、池田さんのお人柄が伝わる大好きな箇所だ)

 

神、が動くことである、というのは、神が自ら遊び、その過程、経験を楽しんでいる、という考え方に通じるのかもしれない。そしてその理由は”ない”。

人(=神)はなぜ遊ぶのか。

 

理由はない。あえて言えば暇だから。

 

人は自らの生に理由を求めがちである。理由がある、生きる意味を探す。

 

しかしそれは”エゴ”の、自分はスペシャルである、と思いたい、というエゴの存在理由探しなのではないだろうか。

 

理由がない、とは、池田さんのおっしゃる、”あら、生まれちゃった。生まれたからには死ぬまでいきるしかない”という境地のことであろうか。

 

エックハルトや、老子や、イエスが伝えようとしたことと同じことを、週刊誌、月刊誌の、いわば”どぶ板”紙上にて、池田さんが伝えようとなさったことに、感謝と驚きを感じる。

 

よく池田さんはおっしゃった。真実を伝えたときのひとびとの反応。唐突だ、の感あり。みなさん鳩が豆鉄砲をくらったようになる、と。

 

”ビジネスマン”からは、”結構なご身分ですね”といった揶揄を受けることもある。

 

この揶揄、裏にあるなあ、”エゴ”が。自分は”働いて稼がなくては。食い扶持を稼ぐ。それが自分の存在理由。”

 

であれば。

 

仕事は無味乾燥で、パワハラブラックであるほうが”やった気がする”。

 

耐えている私。稼ぐ、わたし。

 

 

そうなんだけど。

 

 

そうした感情をぶつけざるを得ない”企業戦士(いまとなっては語感が古い感じがしますね)たち”に対し、池田さんは優しかった。

 

ときに、あまりの伝わらなさに、”無知なる大衆”に切れそうになりながらも、

 

”この世での最後”の瞬間近くまで、酸素吸入器をつけてまで、

 

 

池田さんは伝えようとなさった。

 

(だからこの世での”同志”を見つけたときは池田さんは喜ばれた。小林秀雄埴谷雄高、四聖たち。その話はまた機会ありましたら。)

 

 

エックハルトの神性の話から、だいぶ外れました。すみません、つい。。池田さんのことを書くをこうなりがちです。。

 

 

だが、エックハルトの当時の”正統派キリスト教界”にとっての異端派感、現在の”ビジネス界”にとっての池田晶子さんの”鳩豆感”の根底には近いものがある。

 

だが、異端派となればへたをせずともグノーシス派(真の神と嘘の神というグノーシスの区別は、エックハルトの神と神性の区別と同じ感触である)のように抹殺されるのであり、現在の”ちょっとキレーなネエチャンが真実を言う”という池田さんの扱いは、

 

 

 

実はそれでも少しはましな方向に、

 

人間界も行っていることの証左、

 

なのかもしれない。

 

 

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

  • 作者:池田 晶子
  • 発売日: 2009/04/04
  • メディア: 単行本
 

 

 

エックハルト。

鈴木大拙神秘主義」より。

 

大拙が”東西の探究者の霊性の場の出逢い”として引いた

 

エックハルトの思想をまずは引用する。

 

P.12以降。エックハルトは伝道の書の中より次の一文を引用し解釈する。

「生前、彼は神を喜ばせ、義人とせられた」。

 

「生前」とは一日だけのことではない。人の日もあれば神の日もある。六、七日前であろうが、六千年以上前であろうが、一日は昨日と同じぐらい現在に近い。何故か?何故なれば、すべての時は現在のこの時間の中に含まれているからである。

 

この箇所、未来も過去も時間という概念もない、今が永遠としてあるのみである、

今の中に過去が過去として、未来が未来として在る、含まれる、という概念と近いと感じる。

 

時を感じるとき、例えば1000年前といえば、遥か昔と感じる。

だが、そうか?

 

1000年前の人の気持ちは、今、ここの”私”の中にあるのではないか。”あれはわたしであった”。

 

池田さんは、言葉を2000年後の人類に対して発している、とおっしゃった。”その時人類がどうあろうとも”。

 

そのこころもちと、この、”大拙”が引用する”エックハルト”と果たしてなにが、どのように、違ってくるのか。

 

時は天の転回から由来するものであって、日はその最初の転回から始まったのだ。人の日はこの時に由来し、万物を明らかに見せてくれる自然の光から成っている。

 

しかしながら、神の日は昼と夜と双方を含む欠け目のない日である。

 

父が独り子を産みたまい、人が神の中に再び生まれる日は、人間にとって永遠の日である。

 

まぎれもない今この瞬間に他ならない。

 

   (引用中、一部段落は変更している箇所があります。本文は不変)

 

さて、このあたり、エックハルトの解釈を聞いた”信者たち”はどう受け取ったのであろう。

 

混乱?理解不能?あるいは光明として感じたのであろうか。

 

そもそもその”信者たち”とは誰のことだろうか。

 

 

 

”まぎれもない今この瞬間”とエックハルトはいう。

 

 

この、”すべては今”という思想。感覚。理解。「真理」こそ大拙が”思想の””東西の””霊性の”出逢い、と称する部分の中心であろう。

 

時、とは人類の”発明”であるという。

 

果たしてよき、発明であったのか。

 

 

”エゴ”による発明ではあるだろう。

 

 

”自分が””ここで”生きている。その”事実”は”時間”の概念がないと成立しない。

 

 

”区分けされた””独立した” 自ら分かれたもの=自分。

 

 

 

分かれること、とは、2つの判断基準を持つことだ。

 

私と、他人。

 

 

自分と、自分以外。

 

 

そこには、比較が、もれなく、ついてくる。

 

 

 

比較の別の貌。

 

 

「苦」。

 

 

違いを苦しむ。違うことは、それを“嬉しく思う”か”悔しく思うか”。

 

 

そのどちらか。

 

 

違いを、”目撃者”として、心の”自己収縮”としてみれば、そこからは離脱できる。

 

 

それだけが”非常口”。出来事を、出来事として、”映画を見ているような視点で”見る。

 

 

 

このあたり、草枕で画家である主人公が、そうあろうとしている心根とも似てくる。

 

 

 

画を描く、という行為は、まずは対象を離れて俯瞰することが必要である。

 

 

すくなくとも”良き画”を”生む”、”良き画”が”生まれる”あるいは”降ってくる”ためには。

 

 

 

”普通”の”生活”、つまりエゴの中にいれば、基本違いの中に住み、そこから目撃者として離脱できず、苦しみの中に在る。

 

 

 

気が、付かない。なぜか?物心がついてからずっとそうだからか?

 

 

 

物心がつく、とは、果たして??

 

 

自分として、エデンの園から”追い立てられ、追放される”ことなのではないだろうか。

 

 

 

智慧の実?苦?区別?”私とあなた”、”生と死”。

 

 

ここだ。

 

 

ここのところをエックハルトは、大拙は、”東西の霊性”たちは、

 

 

見つけ、糾弾し、伝えようとしているところではないのか。

 

 

 

どうもこのあたりが、すべての"原初の宗教的発心”が、

 

”生きとし生けるもの”にすべからく、伝えようと、なった/なっている/なる ところの

 POINTかもしれない。

 

 

 

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