活動と時間がセットである、
という認識はいつ得るのだろう。
自分、という意識、いわゆる自我意識が”芽生える”3歳ころだろうか。
子供に親は、”この世でのルール”の一番めのこととして
時間内にこれをやるべし、
時間内に起きましょう、
食べましょう、
寝ましょう、
ということを教える。
自我、”自分”とは、時間と伴走する存在のことなのだ、
とまずは学ぶ。
”人”として。
しかし”時間”が単なる決め事、”思考上の発明”、
そうということにしておきましょうマター、
であるのなら。
どうだ。
いやいや、
どうだと言われましても。
フロー時間というものがある。
フロー感覚ともいうのかな。
いわゆる”時を忘れて没頭する”というやつだ。
”三昧”ともいう。
人は創作の喜びに没入するとき、
時をわすれることがある。
あれ、これだけしか時間が経ってないの?
もしくは、
あれ、こんなに時間が過ぎたの?
ということがある。
これは、
幸せだ。
人としてあってよかった、と感じる。
小林秀雄が学生との会話でこのように言っている。
だから、どうして宣長までたどり着いたか、確かなことは言えません。ただ、感動から始めたということだけは間違いない。感動というのは、いつでも統一されているものです。分裂した感動なんてありません。感動する時には、世界はなくなるものです。感動した時には、どんな莫迦でも、いつも自分自身になるのです。
これは天与の知恵だね。人間というのは、そういう生まれつきのものなのだな。感動しなければ、人間はいつでも分裂しています。だけど、感動している時には、世界はなくなって、自分自身とひとつになれる。自分自身になるというのは、完全なものです。莫迦は莫迦なりに、利口は利口なりに、その人なりに完全なものになるのです。つまり、感動している正体こそが個性ということですよ。
P.151 小林秀雄 学生との対話 新潮社
ここで小林のいう、世界がなくなる。分裂した人間が感動で自分自身と一つになれる、という感触は、時を忘れ、自分もわすれ、自分がいわゆる”THE WORLD"になる、なるというのか、そうであることに気づく、そうであったことに還る、というものだと思う。
逆説的だが、小林は言う。それが個性だ、と。
個性とはであれば、自分と世界があるのではない。世界が自分であり、
自分が世界であること。
個性の"個”はつまり、他者との区別、集団の中の”個”を示す語ではない。
唯一の、全部の意味の”個”、
なのだろう。