この言葉を“真理””究極の真理””ロゴス”の意味に用いるのは、道教の人たちである。老子は『道徳経』の中で、この言葉に次のような定義を与えている。
道とは満たされることを何ら必要とせず、
しかも、そこからいくらでも内容を取り出せる空の器のようなものである。
それは底がない。
しかし、世界中のあらゆるものの始祖である。
・・・それは、決して干上がることのない深い淵ようなもので、それが一体誰から生まれたのかは知らぬ。
あたかも、神に先立つ存在ではないかとさえ思われる。
孔子のいう”道”と老子の言う”道”が違う、というのは結構皆さんが認識されていることかもしれない。
老子の”道”は”タオ”とルビが振られることも多い気がする。
孔子の道は、どちらかというと、そう、“孝行道””子としての礼節”、こうあるべき、という追及の心構え、といったようなニュアンスか。
老子の”道”が、人間を造りし神、が生まれたもの、エックハルトのいう神性、と共通の意味があることを知った。
やはり、思想の行きつくところは、同じ源であるのだろうか。