夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

4月26日 グループ展の設営を行った。

今朝の体重64.4kg、体脂肪11.1%。昨晩はよく覚えてはいないが、64.6kg、8.8%位だったろうか。昨日の歩数は18000歩であった。会社→家→京橋画廊→設営打ち上げ→家。花粉を避けて基本マスクをした。天気もよく、歩きやすい気候であったのが幸いした。この体重だとBMIは21くらいである。

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昨晩は今日から始まる展示の設営で画廊に行った。特に慣れた作業ではないのだが、他の皆さんの指示でヘルプ中心。だがどんどん作品や関連グッズが並べられていくと、なんというかワクワクするものである。その中に参加させて頂くだけでも嬉しいものである(これを書いているのは3月22日でこの日記を発表するときにはとっくに終了しているのだが)。

 

今回のテーマは「モンストル奇想」である。私は基本なんでも幻想あるいは妖獣を書いており、あまり人外ならぬ人物は書いてはいない気がするが、そういう意味ではわざわざ作品を造る必要もなく、そのまま一応最新作を出すだけでよかったのだ。

 

期限がないと、なかなか作品が仕上がらない。だが期限があると夏休みの宿題のようで、ずっと気にかかっていたりもする。

 

なにも予定がない中で制作が出来るものなのか、こういう声掛けを頂くことで無理やり作品を作るが、義務的すぎると良い作品にはならないだろう。

 

そのあたりの感触が難しいものだ、と思っている。義務的ではない、喜びをもって作り上げる感覚で行きたい、と思っている。

 

個展であれば自己責任でなにもかも、ということであるが、グループ展であれば仲間と作り上げる感触がある。どちらがいいか、ではないが、いちサラリーマンの身でこうした機会を頂けていることは、素直にありがたいと改めて思っている。

 

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引き続き、かぜのたみさんのYOUTUBEを聞いている。1本1時間、なにかをやりながら流すにはなかなかいい。節約、ミニマムライフというキイワードはあるだろうが、結局は小手先の技ではなく生き方への提案、日々の気持ちの世話。こういうことが重要である、という感触を得ながら聞いている。

 

所謂夫婦単位のサラリーマンであれば、日々の買い物の主体にはならないケースが多いだろう。だが単身サラリーマンで自炊をしよう、とおもったら、結構参考になる内容である。自分でさまざまなものを購入する必要があるからだ。

 

1年目は神保町のおしゃれカフェやB級グルメに行きまくったが、そういう時期を経てではどう節約するか、というSTEPに入ってきたと感じる。家にいるとなかなか創作活動はできないが、毎回スタバでそれをやるのはやはりコストがかかるだろう。

 

だが自身の心に聞いてみて、必要だと思えばスタバにもいく。やってはだめだ、と押さえつけすぎると、どこかで爆発することになるだろう。行ってもいい、行かなくてもいい。自分で判断をしていけば、いいのだろう。

 

(禁止、というと外部指令のように感じますが、自身の判断で行ってもいいがいかない、という感じに持っていくのが、いい気がします)

 

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4月25日 深層心理は気づいている。

深層心理、の把握は困難であるが、その一番の分かりやすい発露と言えば「虫のしらせ」であろう。

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私も最近では、虫を大事にしようと思っている。日々のちょっとした動きでも、「あ、この動きをするとものを落としてしまうな。」と思ったことがその通り、ということがよくある。だいたいは立ち止まらずそのままやってしまうが、立ち止まれると避けられたな、という感じになることもある。

 

勝間和代さんのブログで、我慢したり、無意識下でとりあえずはやりすごすことにしている状態でも、意識(無意識といってもいいか)は気づいておりストレスになっている、ということを読んで、当たり前だがその通り、よき言語化をしていただいた、という感じを持った。

 

であれば、積極的に意識の上にあげて、それをまずは認識して見据える、ということが必要だろう。私の感覚では、生きる為の自動運転装置こそが「エゴ」と言われるものであり、エゴにはその蓄積からの判断があるのみで、善悪はない、ということを思ってきたが、そのこととつながっている気がする。

 

なので、エゴの判断をまずは見据えて、それがそれでいいときもあるが、自身の持っていきたい方向とすこしちがっているな、と思えばすこし方向転換してゆく、ということをも最近すこしやっているところだ。

 

結局最終的にそうする方が気分がよくなる

 

人間は基本動物ではあるが、DNAに抗うことが時に可能な存在である。

だがその経験は結局DNAあるいは深層心理に(ちょっとスピリチュアル入りますが)つながっているのかもしれないが。。。

 

すこし大げさではあるが、そういう心と体のムーブの蓄積が、プラトンの言う「魂の世話」にもつながっている気がする。

 

(本能の赴くまま、ではなく、本能を見据えて評価してから場合によっては本能に従う、という感じですかね)

 

 

 

 

 

 

4月24日 東京一人暮らしの1年目と2年目の変化。かぜのたみさんのYOUTUBEをヘビーローテ中。

今朝の体重63.8kg、体脂肪8.8%。昨日はほとんど家に籠りっぱなしであったのだが、朝から400g位減った気がする。昨日は本日画廊搬入がある東京京橋のギャラリーオル・テールさんへの2点目の銅版画に、水性色鉛筆で手彩色を行ったり、毎日ちょこちょこ書いているエスキース類をファイルにまとめたり、もう一冊ファイルをアマゾンで買って(注文して当日届くんですね!!)もう一冊ファイルを夜作ったりで、結構作業をしたことはした。f:id:mamezouya:20240424064210j:image
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脳が動いた、とも思えないが、活動していたことにはなるのだろう。まあ寝ていても痩せるわけで。。(これを書いているのは3月21日なので、この日記発表時はもう終了しておりますが。。すみません)

 

作業中ラジオ替わりに、かぜのたみさんのYOUTUBEを流しまくっていた。こちら画像というよりは語り系なので、耳だけでもいいし、声のトーンが落ち着いていて聞きやすいし、またなによりばりばりの関西人でいらっしゃる(日本語変?)と推察するが、たまにうまくご自身の感覚を伝える際に使用し、基本標準語というのが、私も会社では標準語、脳内はいつも関西弁、という状況と似ているのが心地いいのだ。

 

ご本人はアラサーとおっしゃっているし、基本女子向け想定でおっさんは想定外ではあろうけれども、一人暮らしで生活をちゃんとみなおさんとなー、と思っている我が方としては、日々の暮らし哲学が参考になる。

 

今朝ちょっと聞いたのは、昔東京都心でOLをなさっていたころの初めの様子と、そこから徐々に整えていかれた変化を語られた回である(まだ途中ですが)。

 

私も昨年1年は一人暮らしで、生活ぐだぐだやったなあ、と思っており、いま「これではいかん。」と思って試行錯誤中であるので、大変参考になった。

 

まずはコンビニとのつきあい。1年目は結構コンビニでなにか買っていた。冷凍餃子やビール、チューハイなどである。最近はカネと健康のため、あまり酒を買わないようにして、その代わりに玄米を食べるようにした。空腹を簡単に紛らわす手段として酒を飲んで寝てしまう、ということを行っていた気がするからだ。

 

酒は習慣性がある。当然だが、一度飲んで安易に幸福感が得られることを実感すると、ちょっと心が弱ったときに簡単にそこに逃げ込みたくなるのだ。毎日20gのアルコールであればそれほど問題ない、と言われるが、例えばサイゼリヤでグラスワイン100円とドリンクバー(食事時)200円の計300円で、カナダドライ10杯位を飲みまくれば、アルコールではなく糖質の問題にもなるだろう。

 

下手すれば20杯位飲んでいたし。。。

 

とりあえず玄米で満腹になれば、酒で紛らわそう、ということが減るような気がしている。スタバやコンビニコーヒーなども結構飲んでいたが、カネに余裕があった時はともかく、今はちりつもでカネが減る悪手であろうと認識、最近はペットボトルに湯冷まし白湯(まあただの水ですわな)を入れて飲んでいる。

 

買い物もできるだけなくなったら買う、ということで回数を減らしている。スーパーでも買うものはほぼ固定。今後は0円DAYを増やし、休日の外出も厳選(基本歩きで図書館、公園でぐったり)しようと思っている。

 

この前日比谷公園でぐったりしたが、花粉を吸いまくったようで、ちょっと大変ではあった。

 

あと、そういうことで追い込みすぎず、心が疲れたときの散財費用は織り込んでいる。そういう予備資金がある、ということで精神が安定する。月の前半は絞って、活動は月後半に、という感覚も採用しようとしている(そうすると月前半で金銭面で余裕が出て、後半の精神状態がよくなる)。

 

ひまになれば掃除、というところまではまだ行かないが、とりあえずキッチン周りをまめに拭く、ということをやったら、すこし気分が良くなってきているところである。

 

ということで、日々の生活をいろいろ見直していこう、というきっかけにさせて頂いている。

 

(ラジオとしてYOUTUBEを聞く、というのがいいですよね。1回1時間、というのも番組的でいい)



 

 

4月23日 鈴木大拙の禅、鈴木大拙と禅。

人生の根本的問題は、主客を分かつものであってはならぬ。問いは知性的に起こされるのであるが、答えは体験的でなくてはならぬ。

鈴木大拙の言葉より。

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永遠とは、この知性・感覚の世界におけるわれわれの日常の体験であって、この時間の制約の外に永遠があるのではない。永遠とは生と死の真只中(まっただなか)、時間の進行の只中においてのみ可能である。

 

工藤澄子訳 「禅」 鈴木大拙

 

 

私は特に鈴木大拙に詳しいものではないのだが、なんとなくだが大変身近に感じるのである。大拙の妻ベアトリスは、片山廣子と同い年位であったが、日本に来てから片山にアイルランドの物語への道筋をつけた人である、と認識したりしていることもある。

 

その結果、片山は「かなしき女王」はじめ、その時代の日本では稀有の透明感を持った翻訳をなし、長い年月を経た今も多くの読者の琴線に触れている。

 

大拙の妻は旧姓を ベアトリス・アースキン・レイン  と言ったようで、結婚したときはベアトリス33歳、大拙41歳であったという。当時としては晩婚であったろうか。

 

アースキン家はスコットランド王:クイーン・メアリーの後見人を出した家系とのことで、ベアトリスの母エマはアイルランド出身ではなかったとのことだが、米外交官トーマスと結婚してベアトリスを授かったという。

 

鈴木大拙明治30年に渡米している。片山廣子の父は明治27年に外務省を退官しており、明治38年に亡くなっているので、米国にて大拙との直接の接触はなかったのかもしれない。

 

上掲の工藤澄子訳の「禅」は、米国でどのように受け入れられたのだろうか。私などは日本生まれ日本育ちであるので、禅、といえば仏教の一宗派である、という印象から入る。そう、仏教と言えば、聖徳太子や「一休さん」というイメージが渦巻くのだ。なので、相当年を取るまで、禅仏教の特異性、といった感覚はあまりなかった(一休さんは禅師ではあるが)。

 

だが日本ではキリスト教といっても、サンタクロースに讃美歌、カトリックプロテスタントの区別もままならない。両派がいわゆる「ミッション学校」(片山も最初期のミッション校を出ているが(宿舎に住んでいた)、最初期であるがゆえに教師たちは真摯にキリスト教を生徒に伝えたことであろう)を作ったことで、個人的、というか私の母親はプロテスタント系の学校とカトリックの学校を出たりしていたりで混乱している。

 

つまり米国ではその逆、予備知識やイメージなく「禅」を一つの思想体系としてピュアに受け、考えて体感したのだろう、と思うのだ。

 

禅は、人間一人一人のなかに神自身の残り香のようなものが宿っている、という教義のため、異端とされ当時の教会から抹殺されたグノーシス派や、その後その思想の流れを汲んで同じく異端とされ抹殺されたカタリ派などの教義とも親和性があるように思う。

 

つまりは、「悟り」だ。

 

悟り、というものの理解が勿論私では不十分であろうが、いわゆるキリスト教圏で一部グノーシス派などの思想を史実として理解している層、当時のヒッピー文化、そういった土壌の中で広く興味を持たれたものだと思っている。

 

妻のベアトリスは母親から続く神智学者でもあり、その知識・信条から大拙に惹かれて結婚したのだろうと思っている。

 

それは冒頭で引いたような大拙の人生や永遠に対する深い理解があってこそであったのだろう。

 

大拙の言葉は英語を通して日本語に戻っており、それがまた味わい深いですねー)