魂とはなにか。
池田晶子さんが2007年に亡くなってのち編まれたアンソロジーがある。
タイトルは、
死とはなにか
私とはなにか
魂とはなにか
だったやに記憶する。
正確には2009年発行で、それぞれがご生前池田さんに縁が深かった出版社3社によって出版されている。
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『死とは何か さて死んだのは誰なのか』 出版社:毎日新聞出版(2009年)
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『私とは何か さて死んだのは誰なのか』 出版社:講談社(2009年)
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『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 出版社:トランスビュー(2009年)
3冊は違う出版社であるのにもかかわらず、装丁は揃えられて、さても粋な計らいをするなあ、編集者は同走する戦友である、と信頼されていた池田さんに対する、編集者の皆さんの心意気を感じられて、”さて死んだのは誰なのか”とサブタイトルで喝破された池田さんへの素晴らしい餞(はなむけ)であると思ったものだ。
本年、2025年に池田さんの墓前に参らせていただいたのだが、お墓参りが好きだとおっしゃっていた池田さんの墓標には、この言葉、”さて死んだのは誰なのか”が刻まれ、愛犬ダンディとダンディ2世(短命な大型犬コリー故、2世君も亡くなっていたのですね)の骨とともに、池田さんは眠られていた。
池田さんが”楽しいピルグリム”をされて見つけた有名?な言葉、”次はお前だ!”、もちろんその言葉は池田さんの墓標に刻まれてはいないのだが、池田さんの文章を愛する皆さんはもちろん、池田さんがおっしゃる”メメント・モリ”、死を想え、の言葉としてこの句を胸にずしりと刻まれていることと思う。
さて、つまり私は、”はて魂とは”と考えたとき、”魂ということばの扱いには慎重にならざるを得ない”という旨、心境を吐露されていた池田さんの心をまずは思うのだ。
なぜに慎重に?となると、個人的にはやはりここ日本の宗教に対する微妙すぎる心理風景へのご配慮ではないか、と考える。
魂、といえば、まあ水木しげる先生の労作、鬼太郎シリーズを挙げるまでもなく、”幽霊””霊魂”という言葉が浮かぶ。
幽霊族、という設定を(詳細はあやふやであるが)みても、鬼太郎や親父の設定では、この世に人間そのままではないが、なんらかの”生”を得て存在しているようだ。
幽霊、が成仏しない霊だとしても、あの現実感とともにわれわれは魂(=霊)をなんとなく認識している。そしてそれは日本の怪談の系譜を見ても、それに敷延した創作(そうでなければあれほど人口に膾炙しないであろう)であるが故の国民的幽霊(族)としての鬼太郎(一家)があるのだろう。
池田さんはまた、立花隆さんが”死後の世界を見た!”として発表された著作を、”気もちはわかるが勇み足である”と苦笑い(馬鹿にされてはいない)を持って評価されていたことも思い出す。
生、にあるうちは、死はいかんともしがたくわからない。とにかくわからないのだ。
そういうことをキチンと分からせてくださる文章、これは当たり前であろうがけっこう他ではあまり見ない気がするのだ。
真理とイデアとを見る目をもって、”哲学の巫女”として真理が池田さんの口を通して流れ出る。
そういう自負、というかいや、むしろ”事実”をもってして生きられた池田さん、生まれたからには死ぬまで生きるしかない、と諭され、迷える若者の問いには、”先生(池田さんがこの若者が”先生”と呼びかけられたが故の茶目っ気でもある)も故郷に帰りたいのですが、”と留保されて生きることをご自身の立場からの誠意溢れる形で推奨されたことも思いだす。
自身が“教祖”として祭り上げられることが極力ないように腐心されている、ということもあった。つまりは、人に寄っては、読みが浅ければ”信じるより考えること”という池田さんの喝にも関わらず、”考えるより信じる”という盲目モードに自身を持っていく(その方が楽)という人がいることを感じてらしたのであろう。
魂を考えるとき、古今東西の宗教や思想家や哲学や市井の人が、どうしても”存在”や”私”や”死”と向き合った結果として捕まえることになる。ユングの集合的無意識や、シュタイナーのアカシャ年代記など、存在の膨大な経験がデータログとして日々積み上がっている、という意見を聞くと、なるほどそんな感じもするなあ、というのが今の私の心境である。
そう、魂はこうである、ということは、まあ、皆さん好きに考えて、個人が個人の中で、個人の精神の責任で、考えましょう、ということにしかならないのではないか、と、
今は考えているところである。
(池田さんのお墓参り、酷暑のなか汗だくで、結構見つけられずに探しましたが、行けてよかったです。墓前に誰かがもってきた、綺麗な花がありました。私はお水をお渡ししただけでしたが)