2015年である。
池田晶子さんの”人間自身 考えることに終わりなく”、これは本当に何度も申し上げているかもしれないが、池田さんが最後まで、病室で、書き綴られたものがつまっている。しかし、そのことは文章からはわからない。病室にいることなど、おくびにも出されていない。
・・・これが池田さんだ。それが池田さんだ。
P.122、平成19年の初頭の週刊誌を飾ったのであったろうお正月に関する池田さんの文章を読む。
”お正月くらい、生きて在ることのおめでたさを自覚してみたい。”
ああ、すばらしい文章が並びすぎている。順不同ではあるが、書き写しておく。いわば”書初め”ならぬ、”打ち初め”。
書初めが、例えば”賀正”といった寿ぎの言葉を衣をあらため、リセットした魂の一ページ目に書き記すがような気持ちでしたためるものであるのなら、まさに池田さんの言葉を前に同じ気持ちに、なるではないか。
”なぜかつての我々にとって、お正月はおめでたく面白いものだったかを思い出してみたい。
おそらくそこには、季節の祭りを寿ぐ気持ちと同じか、またそのことの裏返しとして、自分の人生の一回性に対する強い自覚があった。季節は永遠に変わることなく繰返す、自分の一年もそれと同じに廻り来る。しかしそれは同じようで同じでない。なぜなら私は一年分の年をとっているからだ。私の命は確実に死に近くなっているからだ。”
”入れ替わり、立ち替わり、生まれては、死んでいる。その繰り返しの中に、この私もいる。来年は私がいないのかもしれない。何が存在していたのだろうか。永遠的循環の中の、一回的人生。いま生きているということ自体が、奇跡的なことである。ああ、今年も無事に皆の顔を見ることができた、奇跡的なこと、おめでたいことだ!”
同年の2月23日にお亡くなりになった池田さんが、どのような時期にこの文章を記されたのかはわからない。だが、入院するやら、あるいは体調の不調を大きく感じられていた時期ではないのか、と推察する。
池田さんは、おっしゃる。”来年は私がいないのかもしれない”。
死の予感、などという表現は池田さんの”考え”にはそぐわない。そも生とはなんなのですか。死とはなにか。
しかしなお、そこで出てきた”今年と来年”。その後のことを知っている我々からすると、含蓄、という浅い言葉では示しきれないものが滲み出る。
生の一回性。いま、ここにあることの不思議と寿ぎ。
そして出会いの、この世、自体の、不可思議と驚きと、そして”縁”。
えん、と読んでもいい。えにし、といいたくなってもいい。
本年は忘れがちなこの頼りない魂に、できるだけそんなことを呼び起こすように努めてゆきたい。
池田さん、本年も何卒、ご指導よろしくお願い申し上げます。
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