今朝の体重68kg、体脂肪13.2%。

もも肉食べ過ぎかな?
食べている量はそれほど増えてはいないので、じわじわ落としていこう。
1か月で2kgくらい落ちればいいかな。2か月で4キロ落ちてくれればいいかと思っている。
まあ、これから夏になるので汗をかくので落ちやすくはなる。あまり絞りすぎてもパワーが落ちるので、一気に落とさないようにしよう。
あとやはりパンは太りやすいイメージだ。というか、買って来たものをたまらずすべて一気に食べてしまうのがいけないのだろう。だが、ひとりでいると、買って来たものを置いておくのは不可能である。
最近さぼり気味だったアブローラーを今朝はやれた。腕立てとアブローラーはやっていこう。あとはぶら下がりかな。
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すべての存在は、識別可能であるかは別にして、最深層に降りてゆけば一つの点(それを何と呼ぶかはわからないが)、原点というべきものの集合である。
つまりは、その寄り集まりを”コトバ”で”分節”することで、それが”存在”と呼ばれるのだ。
なので、観方によっては、すべての存在はただその”原点”がまだらにあまねく遍在しているだけ、となる。
コトバはその”全”から部分部分を”有名”化して、識別する仕組みである。
つまり、”全”にはもともと名前がない。”無名”である。
仕組みとしての”コトバ”、考え方のルールである”時間”が合わさって、存在、という考え方が”仮”に立ち上がる。
銀河系を超えるサイズの”目”があるとしたら、地球全体は一つの“点”に見えるだろう。
逆に我々の眼でみる"原子””素粒子”まあなんでもいいが、あるいはそこは内容的には我々の”地球”のようなものかもしれない(顕微鏡では見えないでしょうが。。。)。
入れ子、構造である。マトリューシカ、とも言える。
鏡に鏡を合わせて無限の鏡を現出させたときの最終点。
そのあたりが”存在”の立ち上り点だろう。
一般に、東洋哲学の諸伝統を通じて、根深い言語不信が働いていることは注目に値する。この言語不信は、大多数の場合、方法論的不信なのであって、コトバの意味表象喚起作用に謀られた人間意識の「妄念」すなわちコトバの生み出した現象的多者を、客観的にそのまま実在する世界と思いこむ人間意識の根本的な誤り、を打破して、その基礎の上に、絶対無分節者の立場から見た分節的世界の真相を打ち破るには手間がかかる。
そのことを井筒俊彦は上記のようにあらわしている。方法としての”不信”を採用することで、「ドクサ」として思い込んでいる「コトバ」による分節化による(ここの各自の意識の中での)世界の創造をなかば強制的に再認識させて、原点、すべて、一、に還ろう(それは”たそがれに還る”であろうか。あるいは池田晶子さんのおっしゃる”ふるさとに還る”であろうか。そういえば池田さんは大峯顕さんとの共著で”君自身に還れ”というフィヒテの言葉を冠した著書も著されていた)ということなのだろう。
この本では、池田さんのことを評して大峯さんが”菩薩”だとおっしゃっていたことを思い出す。
通常の会話の中で想起される使用法ではなく、”衆愚を憂い、導こうとされた”真実の巫女としての池田さんを表すことばとして、流石共著者、深く池田さんのことを理解されているものだ、と感嘆したものだ。
まあ、それはさておき。
水が全体としてたゆたうように、見方のレベルを変えれば、別に個体、生物の1体は細胞膜でその中にいろいろためてキープしている存在であり、外界部と本質的には無分別である。なので、これもレベルを変えてみれば、大海に川の水が流れ込み、雨が降り注ぐように、
すべての”存在の海”のなかで、すべてはたゆたい、共存しているのだ。
(そんなことを考えてゆくと、自身の体重増減もまあ、なんというか誤差すぎますね。。まあ、細胞の膜の中を”よく整え”て、よき”生”を目指す、ということなのでしょうが。。)
