もともと我々の言語意識の表層領域は、いわば社会的に登録ずみの既成のコトバの完全な支配下にある。
そして既成のコトバには既成の意味が結びついている。既成の意味によって分節された意識に映る世界が、すなわち我々の「現実」であり、我々はそういう「現実」の只中に、すこぶる散文的な生を生きている。


はじめに言葉あり、というのが聖書の教えであるが、これはまさに今までの人類がある種の思考実験を行い続けた結果の、深淵な言葉であったのだ。
しかし私は特段なんの感慨も受けずにやりすごしてきた。
”はあ、そんなもんか”と。
だが池田晶子さんが、まずは衆愚の中に埋没する私に語り掛けてくださった。
”この言葉に注目せよ”と。
そう思っては来ても、自身では特段なにも浮かばない。ステップボードを先人の言葉(本)で見つけると、
あれ?これは。。。。
という気が起こり起こりする(古い言い方だなあ)ということもあった気もするが、
まあ、ただ”気がする”レベルではあった。
”衆愚”とは単体の”愚”が寄せ集まっている様である。
衆愚の中の一”愚”である私が、へたな考え休むに似たり、を地でゆく体で、むらむら、と考えるわけである。(むらむら??)
思い出すのはここでもよく言う”ゲド戦記”。真の名、という概念がよくわからない。真の名を知られたものに支配される??なんのこっちゃ??真の名って???
とは思ったが、うーん、なんだかそういうこともありそうだぞ、という気もしたわけだ。
”名とは何か”
再びP.284,および288から引く。
しかし、いったん言語意識の深みに目がひらけて見ると、存在秩序は一変し、世界はまるで違った様相を示しはじめる。言語意識の深層領域には、既存の意味というようなものは一つもない。時々刻々に新しい世界がそこに開ける。
言葉(井筒さんのおっしゃる上位概念、あるいはドクサのない意味での”コトバ”といってもいいだろう)は制限を受けない。言葉の分節化機能により、(言葉=コトバ)の下に”意味世界”が生まれる。その上に、ではないのだ。
(この辺りが”流出論”と近いのかな??)
言語意識の表面では、惰性的に固定されて動きのとれない既成の意味であったものでさえ、ここでは概念性の留金を抜かれて浮遊状態となり、まるで一瞬一瞬に形姿を変えるアミーバーのように伸び縮みして境界線の大きさと形を変えながら微妙に移り動く意味エネルギーの力学的ゲシュタルトとして現れてくる。
要するに、我々の言語意識の深層に遊動する「意味」が、様々に異なる形、様々に異なる度合において、存在喚起的エネルギーとして働いている、ということだ。
おおー!である。なるほど!である。
もちろん井筒さんのご意見ではあるものの、こうやって聞いていると、コトバが、言葉がいかに”世界”を自然に構築し(いや特に意思がないから”勝手に生まれ”か)、われわれは単にその作用の中で”散文的に”過ごしているかがわかってくる。
散文的、というのはここでは少しくネガティブな意味であろう。
そも根源に立ち返り、言葉の作用とその効果を考えてゆけ、と池田さんは、井筒さんは、文書としてそれを提案されているのである。
”よければ受け取れ”
ご両者からはそういう意向を感じる。
別に”愚”の一員である私が、愚ではなくなるわけではないが、
仏教の中では「縁なき衆生は度しがたし」、と詠嘆される”衆生”の中で
すこしはご縁を頂けたかな、"度して”頂けたかな、とも思うわけである。
(妄言妄語シリーズ(笑)(笑))