今朝の体重67.8kg、体脂肪11.8%。
昨日は飲み会。

最近はすっかり弱くなって、翌日にどうやって帰ったか覚えていない(一応夜は意識があるようだが)ということばかりなので、
飲みすぎないように、と一応思って、ヘパリーゼも事前に飲んで臨んだ。
まあ、やはりだいぶ残ったが、まあなんとか出社できた。
体重は多分少し減っている。飲むときはやはりそれほど食べないからかもしれない。
自分を支える言葉は、実は自分自身の中にすでにある。
最近よく引用させていただいている若松英輔さんの「ひとりだと感じたときあなたは探していた言葉に出会う」から引いた。
本を読んで、これだ!と感銘を受ける言葉がある。これはもちろん人それぞれであろう。なぜ個人個人でびびっとくるのか。それはある意味、自分の中にその言葉が既にあったから、といえるのかもしれない。
これは”分かる”とは、自分の中に既にあることの総数のなかからその事実が”分かれて”もたらされる、という意味もあるということ、これもなんども池田晶子さんから頂いた概念としてここで述べている。
そのことともつながる言葉だろう。
同書P.6からも引く。
作家の遠藤周作は、私たちの日常には「生活」と「人生」という二つの次元がる、ということをしばしば語っている。生活が横軸であるのに対して、人生は縦軸である、と書いていたこともあったように思う。生活と人生は分離していない。それはちょうど十字架のような形をしている。人はいつも生活と人生の接点で生きている。
この文章も前に引いた気もするが、基本ここで書いた日記は読み返さないので、覚えていない。すみません。。
ひとはともすれば日々の生活に身を任せてだらりと過ごすのが普通であろう。だが、そこで「人生」、自分は人生を生きているのだ、という視点や自覚を頭のどこかにおいておくのが肝要だ、ということだろう。
それがあれば、中長期的な視点で、なにか日々の生活の中で出会う、自身にびびっとくるものや出来事に出合えば、それをフックにしていろいろ考えたり、行ったり、書いたり、描いたり、ということが出来そうである。
結構忘れがちな「人生」の面、余裕がなく、体力がない時は、サバイブで必死になる日々もあろう。だがどこかでそうした意識を、忘れずにいたい、と思っている。
そういうときにいいのがやはり「読書」。
WEBでもなかなかいい言葉に出合うこともなくはないのだが、本は著者の考えが塊で提示されているわけである。そして、作者の傾向や信条なども把握していれば、その作者の著作を追っていくことでどんどん深く潜れるわけだ。
漫画でももちろんいい。画集などもいい。
深みに潜れば潜るほど、なんというか、「その人だけにたどり着ける、個別の場所に至ることになる」という感じがする。
やはり読み手のキャラクターがその潜りに影響するわけだから。
いわば作者と読者の共同作業としてでてくるなにか。
それは”理解”というべきか、あるいは”アイデア”というべきか。
”方向”だったり、”可能性”だったり、”意欲”だったりもするだろう。
本に作者の魂の一部がこもっている、と感じるのはそんな時だ。
まあ、別にスピリチュアルな意味で言っているわけではない。だが完全に比喩で言っているわけでもない。
グノーシス思想では、人間一人ひとりに”神の火”が入っていると言われる。
個人的にはそれこそ”魂”といいたいところで、魂を持たない天使や堕天使や悪魔が、神の一部である魂を欲するのはそういう理由だ、というのが、
ゲーテの”ファウスト”やその他もろもろの今まで見たり読んだりしてきたそういう系のストーリーから私が得ている今の理解である。
本には作者の魂。人体には魂としての”神の火。
そのあたりがつながってくる気もしている。
(このことも最近言ってばかりですね…すみません)