夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

2月5日 意識と本質。

今朝の体重64.9kg、体脂肪5%。昨日は11.7%だったのに。。。

 

(笑)

 

どっちですか??

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まあ、正月明けで68キロあったので、3キロ減は寿ぐべきであろう。

2日間ほど玄米を炊いた。多分半年ぶりくらいな気がする。

炭水化物としては、あまり食べずに時にオートミール。食べ応えとして納豆+きな粉。

これを混ぜまくると、非常に食べ応えのあるペースト状のものが出来上がる(50回くらいまぜると、急に形状が変わる。これは面白い。科学実験のようでもある)。

 

これを朝晩食べていたが、大豆イソフラボンを1日許容量の2倍くらい食べていることに気づいたので、慌てて中止して1週間ほどになる。

 

で、夜に何を食べるか問題だ。

本当は白米が美味いが、これは炊いて食べると無限に食べてしまう。

多分体重は75キロまであっというまだろう(実際昔はそれくらいあった)。

 

まあ、GI値もあるし(血糖値問題=血管問題)、精製した白米は高いし、昔買って食べていなかった玄米をまたおそるおそる再開した。

 

なぜおそるおそるかというと、玄米もやはり太りやすいからだ。

 

太っていやなのは、からだが重く、動きがしんどくなること。下っ腹が段になるのも個人的には醜く(いや別に他人に言いたいわけではない)感じる点もある。

 

BMIとしては21くらいはいつもあるので、別に全然痩せすぎではない。

 

どこかでもらったレトルトカレーがあったので、おとといはつい1合(2膳分)を食べた。昨晩も同じく1合。

 

うーん、今後どうするかなあ。。。

 

 

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私が本論で分類するものは、詩的想像力、あるいは神話形成的想像力によって、深層意識のある特殊な次元にあらわれる元型(アーキタイプ)的な形象を、事物の実在する普遍的「本質」として認める一種の象徴主義的「本質」論の立場である。グノーシス、シャマニズム、タントラ、神秘主義、等々、東洋哲学の領域において顕著な位置を占め、その拡がりは大きい。

井筒俊彦 意識と本質

松岡正剛 千夜千冊 1773夜より孫引き

 

松岡正剛氏のこの書評を読んで、「意識と本質」、買って積読していたこの本を留守宅の横積み本(本棚積読本群より探求度合いはより困難)から探しだして、読んでいる。

 

こうした卓越した本の読み手の文をしっかり読んでから本を読むのは、エベレストに上るときの助け人(=シェルパ)を(えらい故人に失礼ながら)雇うようなものである。

 

井筒本はこの卓越したシェルパをして”読みにくい”という呟きをさせる難峰だ。

 

そして井筒氏がいう「詩的想像力、あるいは神話形成的想像力によって、深層意識のある特殊な次元にあらわれる元型(アーキタイプ)的な形象を、事物の実在する普遍的「本質」として認める一種の象徴主義的「本質」論の立場」という立場は、私にとって非常に魅力的なものであるのだ。

 

まあ、人は別に日常生活で「本質とはなにか」と考える義務はない。

考えた方がいいとは個人的には思うが、そも強制されるようなことではない。

 

だが、池田晶子さんが、”悩むな、考えろ!”と下さった喝をある日天啓のように感じ、

このうすぼんやりした頭で、まあ、自分なりに考えていきたいなああ。。とゆるっと思っている身としては、

 

本質とはなにか、という問いは世界の問いの中の多分5本の指にはいるものであろうと思うし、

 

すべてがそこに収斂してしまう、という意味では、唯一の、究極の問い、かもしれない、とも思う。

 

哲学が生まれ、還ってゆくところにある”問い”。

 

で、上記のように本質を感じる立場は、思うに万人向けではない。

 

たぶん私が、詩やら、神話やら、(例示もされている)グノーシスやら神秘主義やらになんだかわからないが強く惹かれ、まあ、卑近な表現でいえば”好き”であるが故の興味であろう。

 

まえにも書いたが、松岡正剛さんが神秘主義的である、と批評(批判かもだが)する文をそのユリイカ追悼号で読んだ。

で、慧眼である、と思うのだ。

 

そもそもギリシャ哲学と神秘主義を関連づける同書自体、発表は戦中?ではないかと思うがギリシャ哲学界では黙殺されたように認識している。殺は言い過ぎか。歯牙にかけられなかった、というべきか(これも言い過ぎ?)。

 

これは多分に物事を詩的に、神話的に見るのをよしとしない勢、があるからだと思っている。

すこし嫌味な表現でいけば”論理派”。

 

この勢は、生理的にたぶんそういう方向を毛嫌いするのだろう。ロマンチックすぎる。あまっちょろい。自身の嗜好を持ち込んでいる。

 

で、それもたぶん慧眼なのだ。

そうであるなあ、と自分でも思っているから。

 

まあ、別に強制でもない好きで考える世界では、文句はいわれまい。だが、”学問の世界”であれば別だ。哲学を探求をメインにして考えるが少な気味であるのが”学問”だと思っている(学んだところを足掛かりに次にゆく、ということもありますが)。

 

でもでも、池田さんがおっしゃる”学ぶ”ではなく”考える”こそが唯一のやるべきことであるのであれば、

 

私の”考える”がそう命じるのであれば、それに従おう、と思っているのだ。

(ほんとどうでもいいことなんですがね。日々の”食べるための生活”には(笑))