夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

12月1日 善の区別をやめること。

今日から出張。

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体重は64.5kg、体脂肪10.7%。昨日は昼に久し振りにCOCO壱番でカレーを食べた。

ベースのポークカレーにライス400gとしてサラダ140円を追加。

 

一瞬部屋に戻り玄米握り(1膳相当)を食べたのに加え、夜はパスタを乾麺ベースで想定150g(3倍くらいにはなるかな)も食べたので、心もち体重増。

 

歩数は昨日は銀座にて版画工房の先生の個展を見たので、12000歩強は歩けた。やはりこの年末シーズン、丸の内あたりのイルミネーションは美しい。

 

あれやこれやの善を止めなさい。そうすれば、汚れなき善性が、己の内に漂いながら、純粋な広がりの中に、存在する。それが神である。

 

こちらはマイスター・エックハルトが「神の慰めの書」で聖アウグスティヌスの言葉として引用している言葉である。

 

個人の心はすべて違っており、個人での善とはすべて違っているだろう。

 

他人と他人の善を調整して、住みやすくすることが政治の本質であるとして、各人の善を同じくすることは不可であろう。

 

そもそも同じではない、という前提が重要で、そういった違った善をすべて網羅する絶対的な善の存在が、差異があるがゆえに想定される。

 

この考え方は私には新しい。

 

そもそも神ということを考えたのは、宇宙が膨張しているとして、膨張する先があるのならそこは無とはいえないだろう、と思ったことが契機だが、

 

そういう”限定”がみられるからして、限定のない状況が想定される、といういわば逆張りの論理である。もうそこはわからない、わからないが、限定があれば無限定があろう、ということだ。

 

こういう考え方に接して、なにかほっとしたのだ。

 

そうか、追及しつくしても追及できないだろうと思われることは、それはそういうものとして受け止める。

 

それがどうあるかはわからないが、わからないこととそれがあることとは別なことだ。

 

 

そういう形で”あきらめる”こと、この姿勢があるいは、エックハルトのいう”離脱”の骨法であるのかもしれない、と思ったのである。

 

(すっきりする面がありますね。アウグスティヌスもそうした手放しの考え方のことを言っている気がします)