夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

千と千尋とカニバリズム。

今朝の体重は65.9kg。朝食後。体脂肪は5%。昨日は体重65.1kgで体脂肪が14.2%であった。一体わがタニタさんはどうなっているのだろうか。

まあ、これが測る時間を一定にせよ、という奴なのだろうが、でもだいたい同じ時間に測っているのだが。

まあ、足して2で割って、10%前後、と認識しておこう。

 

さて、千と千尋の神隠し、という映画は、世界的にも評判が高いものだが、これはたぶんに普段人間が無意識に抑圧しているさまざまなタブーを、もやっとした形で提示した、そしてその形がなんだかホンワカしてカタルシスになる所為だ、と思っている。

例えば父母がブタとなるシーン。これをのちに千尋が父母が変化した豚を食べろ、と強要されるシーンと相まって、カニバリズム、それも肉親カリバニズムの問題を突きつける。実際このシーンがトラウマになって、後に豚を含め肉を食べられない、となった肉親がいるのだ。

哺乳類である人間は、豚に近しい。それに変化する、と考えることは、例えば人間がカタツムリになる、というよりもハードルが低い。つまり普段気にせず、あるいは気にしないことにして哺乳類を食べている、という事実を、ここでは激しく突きつけられているのだ。

例えば中国へゆけば、食用に改造されたチャウチャウがいる。私自身は見たことがないが、市場で生きた普通の犬が食用として売られているのを見た。コンパニオンアニマルとすることで、あるいは個別の名前を与えることで、その動物は「いつか食べる肉」としての動物ではなく、「家族の一員」になる。そうなるとそれを食べることは不可能となる。肉親を、親族を殺して食べるのと心情的には変わらないからだ。

例えば昔、番犬として飼われていた犬は、室内犬を飼っている身にはとても残酷な扱いを受けているように見えた。時に散歩に行くしろ、普段は暑いし寒い玄関先で番犬として吠えるのが仕事だ。

そういう残酷な扱いを受けることでよりイライラしてより吠える、という面さえあったのかもしれない。

そこでは飼い主は「かわいそう」とか「こんなに暑いところに置いていてはイカン」と思ってはならないのだ。「情が移り」、その場所に置けなくなってしまうのだから。

なので昔は「犬を座敷にあげてはいけない」というようなルールがあったよう思う。多分、座敷にあげる、とは「個別の名前を与え、家族に加える」という意味がありうるからだろう。

ドナドナもそうした「家族を市場に売る=食肉とされるリスク大」ということから生まれた歌であろう。家族同様のコンパニオンアニマルでありうる馬であるが、働けなくなると「我が家に無駄飯を食わせる余裕はない」となる。これは本当に余裕がないということだ。

そうしたギリギリの経済状況下で、コンパニオンアニマルを「処分」する決断をする「お父さん」のことを今まで意識したことはなかったのだが、彼には子供時代があり、コンパニオンアニマルと接することも当然にあったであろう。

だが「無理」。そうした経験から判断する。当然子供には恨まれる。わかっている。私も恨んだのだから。

こういう葛藤をどこかでもったうえで、「市場で売ることにする」。

おとうさん、もつらいのだ。あの歌にはそういう含みさえあるのだろう。

豚をペットにすることもある。大きくなるとどうなるか。もてあます、ということになってしまうだろう。Pちゃん、の話もある。

これは「あらいぐまラスカル」問題ともつながる問題だろう。成獣のあらいぐまは狂暴なのだ。

千と千尋のことであった。そのほかにはカオナシ問題。これはアイデンティティ、この世で居場所がない問題、それを感じ導く存在として千尋はいる。そして「環境破壊」。川の化身である「ハク」(でしたっけ?)が環境の破壊により「悪のほうに一瞬取り込まれる」この悲哀。

そして「性」。上手く料理されており、ほとんどの人は感じないようだが、「湯屋」とは性の場所でもあるのだ。そこに来るのは「神」。神が性に引き寄せられる。神とはなにか。

こうしてみると、この世で結構ヘビーな問題点が、わかりやすく、そしてわかりにくく閉じ込められているのだ。

研究不足で、この物語を誰がどのように生んだのかは私はよくわかっていない。だがたぶん、ナウシカで示された世界観、人類の行く末、のような宮崎駿の問題意識と、これは繋がっていると感じている。基本、宮崎氏の世界観の映画、ということだろう。

ナウシカはこれはもう、宮崎氏のピュアなオリジナルである。アニメージュであの連載が始まったときは度肝を抜かれた。ゲドが好きでそのイメージを助けとした、という「シュナ」。長男の吾郎氏はオリジナルのゲドのイメージに、父が生んだゲドレスペクトのシュナの物語を混ぜることで、良かれと思いつつ、混乱をある意味引き寄せてしまったのかも、しれないが。

神については、これは一神教の人々に、日本における「八百万」の神のイメージをも、新鮮に与えた可能性がある、とも思っている。日本人であればほぼ自然に感じている「八百万」。これがあるいは世界では、強烈な他文化のイメージとなったのではないだろうか。

以上、千と千尋がジワリと世界に与えたインパクトについて考えてみた。宮崎氏はキャラクターデザイナーに、今回はあまりかわいくない娘を、とはじめは要求されたという(その後いつもの宮崎娘への揺り戻しがあり、抵抗された、というエピソードも楽しい)。

実は千が、例えばクラリスであれば、あの物語は全く別のものに変容していたであろう。それはそれで、見てみたい気がするが。

(私はあの話、大好きですね)

 

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