夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神学。

今朝の体重63.8kg、体脂肪率は12.1%!

3日間の歩数が、酷暑と台風影響による雨もあり、とても少なかった。あといろいろな精神的な問題もあり。

そうはいっても3日で8000歩である。一日なんと3000歩に行かない。。。

で、体脂肪率もアップ、という。

思うのだが、体脂肪率はやはり歩いたあとや運動後は高く出る。運動していないと低く出る。果たしてどちらが本当なのやら。。

存在学というものが、その存在の内に本来的な存在とか、非存在的な存在、あるいは本質的な存在とか、偶然的な存在とかいう区別を附するにつれて、最も完全な本来的な存在が考えられなければならなくなる。それが神であり、従って形而上的な神学に転ずるというように申してきました。
P.69 田辺元 哲学の根本問題

田辺氏の思索につきあっていると、神とはなんというか、「そう考えられるために考えた」結果の存在である、と思えてくる。

つまりは「本質的には存在しない、思索上の方便のようなもの」である。

であれば、「究極的には、「存在している」と感じるような形では存在していない」という方向にもなってくる。

それはすこし、なんだか物足りないというか、肩透かしというか、残念というか、「神は死んだ」というか。

もちろん、ニーチェとは違う意味で。

 

所詮は思考の戯れか。

 

という感じになるということだ。

これはどういうことだろうか。

 

なんというのか、人格神、とはいわずとも、なんとなく「意思」を持った存在としての神がいると思うことは楽しい、という感じだろうか。

楽しい、とは変な感覚だが、なんというか「この世はそんな感じで成立していると面白いな」といった程度のものだ。

あくまで感覚である。

 

だが、けっこう多くの人類が、「BIG FATHER」が「GREAT MOTHER」かはわからないが、「自らがやってきて、還ってゆくところ」があるといいなあ、という感覚を持っているのではないだろうか。ゴーギャン、でしたっけ。

これは潜在的深層心理からの影響であるのか。

DNAの記憶であるのか。

現在こそが永遠であり、全てである、全ての過去と未来の記憶と萌芽が現在にある、現在だけしかない、

という感覚の故であるのか。

 

(神、について考えることはなかなか現在のわたしには面白いことですね。。)