夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神話は、理解しがたい自然の事象に対し、それと人間の世界とを調停する手段である。

神話は、理解しがたい自然の事象に対し、それと人間の世界とを調停する手段である。
レヴィ=ストロース

神話、というものに惹かれている。

なんというか、あからさまなところもあり、小学生で接する神話はなにかとオブラートに包まれていたりするわけだが、

そのオブラートの存在を知らず、オリジナルに接すると、その毒々しさに自家中毒気味になったりする。

だが、グリム童話しかり、千夜一夜物語しかり、結局フォークロアや神話の類は、わかりやすくこの世界のことや、人間やその他もろもろの事象の実際を、そのものとして手渡すことを主眼としている。

受け取った人は、人それぞれの消化時間をへて、だいたいは老年になるとそれがじわりと滋味として効いてくるのだろう。

その、個人の感想もいれないが語り口ににじみ出る感じで、子供や孫や、関係各所に機会があれば伝えてきた、

それが神話であり、民話であるのだろう。

そこにはわかりやすく心楽しい老若男女が登場し、ヒーローやヒロインや、悪者いいものが登場する。思えば石ノ森章太郎がTVで創作した、いわゆる特撮ものはそんなわかりやすいフォークロアの形式を、知らず踏襲していたのかもしれない。

次第に単純な図式に飽きてくると、悪者が実はいいものだった、あるいはその逆。悪いがいいところがある。そんな味付けもされるようになってきた。

だがそれが味として楽しいのは、あくまで王道の子供っぽい、単純な、「そんなものまだ見ているのか」といわれるような、そんな物語があってこそ、だとも思うのだ。

全てがひねくれた、悪いと思えばいい、いいと思えば悪い、となると、なんとなく「カタルシス」の効きも悪くなる。

だが「正統派」が顧みられなくなった昨今、「異端」が「正統」になった今の時代、どうやらわかりやすさがぼちぼち求められているのかもしれない。

(そうはいっても、余りに正統派なものは、正面からはもう楽しめないですね。。)