夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

世界が一つだという意識はごくごく最近のものだと気づく。1985年頃からか?

今朝は体重64.2kg、体脂肪率11.4%。昨日はほとんど歩かなかったので体脂肪率が上がったが、では本当の体脂肪率ってどこの値なのだろうか。

井筒俊彦「意味の深みへ」を岩波文庫版で読みだした。

アマゾンで購入した。井筒の文章は硬質すぎて、あまり早く読むと消化しきれない。図書館で借りて延長入れて4週間があっというまだ。並行して最近は司馬遼太郎などを読んでいるからかもしれない。

図書館で借りた本は読み切ることにこだわらないようにしたら、気が楽になった。また借りればいいのだし、WEB予約もできる。借りてみて読まなければその一期一会はそういうものだった、ということだ。

一文との出会い。読み進めることに意識が行き過ぎると、一文を玩味することができなくなる。できれば立ち止まって、ノートに写して、再読する。自分のスタイルはこれでいい、と思っている。

あと場所の変化も重要だ。電車、カフェ、出張途上。とりあえず読んでみると短時間で本の中身に深めに潜ることができる場合もある。馬上、厠上、枕上でしたか、電車やトイレはそういう意味では貴重である(枕上は寝付けなくなる可能性があり、あまりやってません)。

井筒氏の文は、本として1985年頃にまとめられたものの文庫化だ。1985年ころの井筒さんの感覚で、それまでは誰一人として考えたことがなかった「世界は一つ」という実感が、当たり前になってきた、というところが興味深い。

幕末を描く司馬遼太郎を読むと、「日本と夷国」「日本とそれ以外の夷人」という世界に日本人がいたことに気づく。外敵として迫りくる異国とどう「つきあうのか」。そこには彼我同根、という意識は見当たらない。

だがその中で外国を見た少数の人間が、外人とはすなわち人間であり、分からない言葉は学べばわかる、ということを体感してゆく。そこから世界が広がる。心の開国、である。

さて、それらの開国はどちらかというと、外面的なものである。「彼らの文化を我らも味わう」。これである。あくまで「彼ら」は別の世界にいまだいるものなのである。

だが、WEBで世界すべからくの人々が、知らぬ間に精神の「開国」を行った。言葉は機械が翻訳する。人はWEB空間で交流できる。

これは人類史的にも、とても大きな変化である。そうした変化の中に我々はいるのである。

変化は変化、そこに基本、「いい悪い」は無い。

勿論個人がいいとか悪いとかは感じるものだ。だがその本質はただの変化、ただの諸行無常、ただの「一」。

時間が単なる人間の発明概念で、仮定のものである、という感じで最近は理解している。いわば「変化も含んだ今しかない」「変化を含んだ今だけが永遠である」「だが変化はある」、という感じだ。

まあ、どう考えるのも自由、ということでやっているのだが、そういう意味でも自由な世界創造ができる「小説」は面白いし、この世界の「存在」を仮定し、遊興している存在を仮に「神」ということもありだろう、と思っている。存在というのはすこし違う。「状況」とでもいうべきか。神とは状況である。

井筒さんの文章で自分なりの蒙を啓かせていただいたのは、そういう「精神面での開国」が、決して幸せではない、ということだ。文化は早晩消滅し、一つとなる。人種の違いも、言葉の違いも、時間がどれくらいかかるかはわからないが自然と一つになる。なってしまう(多分1000年位先だろうか)。

地球という星は、「コントロール下にある」と認識され、人間以外の動植物や気候もまた、コントロールしている、と「人類」という一つの集合的一意識は、おもうことだろう。

そう、「個人」の融解もあるだろう。アバター、サイバー空間、今なんというかよくわからないのだが、そのあたりから「個人」というものも大きく変容してしまうだろう。

そしてそのことはストレスである。個人として揺蕩う時間を味わうことが、芳醇な個別の文化を味わうことが、なくなるからだ。

私は一人になる時間が必要だ。こうして日記を書くことも、「一人」でないとできない。「一人である」と感じることで初めて言葉が出てくるのだ。

これからの時代は、こうした「本質的にプライバシーのない、情報拷問時代のサバイバル」が重要なテーマと、なってくるのだろうと感じている。

(この時代敢えて情報を遮断し、一人で暮らす人々を撮った写真集がある、ということを知りました。読んでみたいです)