国語教育について。
私は国語の授業が好きだった。基本的に物語が好き。細切れの国語の教科書の小説でも、それをきっかけに読みこんだものもある(一番はまったのは赤毛のアン、であった。これはたぶん教科書に載っていないとシリーズ読破はなかったのではないだろうか)。
なぜ好きか。
NO勉でよかったからだ。
私は幼少時、他の子と交わって遊ぶのが苦手だった。予想外の攻撃、歯に衣着せぬ、自己本位の発言。イジメ。子供とは(自分も子供だが)、集団とはめんどくさい、といつも思っていた。
具体的に体でのいじめはない。子供の頃は、身体の大きさが重要だ。3月の早生まれであったが、比較的身体が大きかったわたしは、だいたいが口での攻撃を受けていた。言い返せないのだ。ずばりすぎて。
比較的女の子はよかった。イジメない。だが”いぇーい、あいつ、オンナとあそんどんで~”と囃されると(神戸出身です)、それもなかなか難しい。
しかたなく、暇なので家で本を読む。そんなに種類がないので、同じ本を何度も読む。たぶんこれが、よかったのだ。
なんとなく、漢字のよみを国語で学んだことはない。書く方は全然だったが、これは字を読むことと書くことがまったく別の(関連はあるにしろ)行為であることからすれば、当たり前だ。新聞も、暇だから読んでいた。
なので、国語の時間に学ぶことは少ない。漢字は書けないので、書き取り的なことはやるが、読めるので書くことは関連付けて練習できる。
つまり、国語の時間は、ぼんやりと教科書を前後左右的にぱらぱらめくり、空白に落書きをしまくる時間であったのだ。
半分は美術の時間、といってもいいかもしれない。
まあ、いまどこをやっているか、だけの把握でいい。
今後、国語の授業が変わるという。論理的国語、でしたっけ?まあ、どちらかというと、法律や契約書の文章のような”しょうもない”文章を実務的に学ぶ??的なものではないかと、予測している。いわゆる私が嫌悪する”実際に役立つ教育”=教養とかとは正反対学問、の臭いがする。嫌な、気分だ。
役に立たそう、というのがなぜ嫌かというと、教育する側がわれわれを見下している、使役してやるぞ、お前らは被使役者だ、と言っていると感じるからかもしれない。
つまり、使う側ではありえないんだ、歯車だ、と。
教養はそうではない。結局実務に直結しないが、やるべき時になったらこの基礎力で、自らの力で対応すればよい、という鷹揚さ、懐の深さを感じるのだ。
だが、その間接性から、そうはいっても応用できません、という向きもあろう。だが、実学と言われた瞬間、”お前らみんな応用なんかできるわけがない”と言われていると感じるのだ。
ばかにすんな
端的にそう思う。言ってるおまえらよりはわかってんで。
こう、毒づきたくなるではないか(個人的感想です)。
いや、別に自分が頭がいいとか悪いとかの話ではない。つまりは学ぶ相手を侮っている、と感じるわけだ。
そういう設定をする人たちは、まわりくどい学びに苦労して、嫌悪して毛嫌いしていたのかもしれない、だが、そういう回りくどさに(学んでいた当時はいやいやであったが=特に数学)結局は感謝している。それが私だ。
ほかにもある程度、いらっしゃるのではないだろうか。
実学を学ぼう、といえば、それは学ぶ価値あるよね、と受け取る人が多いというのは、多分あるのだろう。そのことを表面的な理由として実学化を進めているが、実際は”おまえら実務で役に立つことをおしえてやんで、よう勉強しとけや、歯車ども”という思いが、その心の秘めたところに、ほら、あるではないか。
まあ、ついつい本音が出て、だいぶ口が(文章が?)悪くなった。
お読みいただいた方が、気分が悪くなっていないと、いいのだが。
(出身地の神戸を離れてだいぶたちますが、心の声はやはり”マザータング”になっちゃいますね~(笑))