夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

登山。

愛と好きとは違うんだ。愛は感情じゃない。愛は好き嫌いを越えたもの、それがそこに存在することを認めるということだ。

 池田晶子 14歳の君へ どう考えどう生きるか P.23

人に好かれようとするよりも、人を好きになるほうが、断然面白いことだと思わないか。

 同 P.17

この本、14歳辺りの人に池田さんが伝えたいメッセージが込められているわけだが、勿論のこと、この”14歳”というのは象徴的な表現だ。要するに、ストレートにいいますよ。韜晦はなし、皮肉はなし。
池田さんがそのような表現が好きとか嫌いとかではない。ただ、週刊誌の毎週のページ、読者はつまりオッサンだ。その人たちへのサービス、はある。つまりは少し回りくどく、少し山椒をぴりりと利かせて。
だからそれなしですよ、といっているわけだ。だからそれが分っていての”オッサンな”読者もOK.というか、読みやすくさえある。

そう思って手に取る。いきなりの”友愛”。そしてその心得。相変わらずの親切さ。まずはあなたの一番に知りたいこと、それを教えますよ。

高踏的雰囲気がありつつ、ものすごく親切、でも本当のことを本当にしか、教えない。変なドクサはない、そこから出てくる”タブ−”もない。

そんなスタンスが、池田本を読むときの魅力であり、僕が大好きなところだ。それが、この本、そしてこの本の前編ともいうべき”14歳からの哲学”に溢れている。

何故に池田さんには分るのだろう。分るというのか、もともと池田さんの中にある、という印象だ。池田さんのお父さんは、なぜに自分からこのような子が生まれたのか、とおっしゃっていたという。これは通常でいうニュアンスとは違う。お父さんは、素直に感嘆されていたのだ、ああ、僕の考える世界とは違った深みをこの我が娘は持っている。これはなんなのだ。断じて僕にはないものだ。

思想上自らが認め感嘆するものがあるが故の実感であろう。

子供とは決して自らと同じものではない。

その当たり前的不思議さの、それは露呈であったろう。

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次男と三重県藤原岳に登った。快晴、昨年5月1日に登ってほとほと参った膝とくるぶしの”ガクガク”への対策に、大枚計1万円強のサポーターを投入しての、満を持しての再チャレンジである。

もう一つ、次男が多分2年生くらいの時、一度トライしている。その時は、2合で断念している。次男の喘息が出たためだ。そのときは気を遣って、”いや、ほとんど頂上じゃないか”などといったものだが、次男は覚えていた。

今回は、”ここで断念した”と覚えていたのに驚いた。子供は親が思うより、もっとずっと沢山のことを思い覚えているものなのだろう。なにしろ、1年が、1日が、”濃い”。同じ時間を過ごしているようで、実は互いに違う時間を過ごしている。しかし、同じでもある。これが子供と過ごす、いわば”堪らないところ”だ。それを今改めて、感じる。

すっかり、任せられる。ただ、経験だけが、差がある。もう、大丈夫か、と心配することは、ない。ただ、心配させないようにする、という心配りは必要だ。やはりなんらかの気遣いは、要る。

登山口に、8時20分。2時間で頂上へ。山小屋で持参した簡易バーナーでカップラーメン。コーヒー。去年より温かい。登山客も、多い。

藤原岳、1120M。列車の客の会話や、山小屋の同席者同士の会話を聞くでもなく、聞く。三重県では2番目の高さだそうだ。別ルートで、降りるのは、危ない。この前の冬は遭難者が出たそうだ。テントの中で、凍死。この温暖に思える三重県で。やはり寒さは、恐い。

心配した下り、サポーターのおかげで、なんとか無事下山。下りも2時間、かかる。往復で約2万歩。下りは早く降りられそうな感じだが、”歩いている距離がある”とは次男の弁。

なるほど。

2人での登山は、愉しい。すっかりヘルプしてもらったが。

子供のため、などという思いはあったが、もうそれは必要ないだろう。どちらかというと、自分のため。”背負うた子に背負われ”のちょっとなさけないながらの感激、というやつは、池田さんを前にしてのご父君の思いと、たぶん共通の、ものだ。

14歳の君へ―どう考えどう生きるか

14歳の君へ―どう考えどう生きるか

この本のデザイン、改めて見たが、いいですね。

池田さんがそこにいる。

そんなことを、感じさせてくれる、まさにデザインの、装丁者の、想いと力を、感じる。

これも、載っけて、おきます。

14歳からの哲学 考えるための教科書

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41歳からの哲学

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