夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

聖なるもの。

カントの墓碑銘にはこうあるという。 


 ”私がそのことを思えば思うだけ、 
 私の心を1つの尊敬の念をもって 
 みたすところのものが二つある。

 それは、わが上なる星の輝く大空と 
 わが内なる道徳法則である。”


道徳法則のことも重要であるが、我が池田晶子さんに教えて頂いた上記銘文で、気になるのは「わが上なる星の輝く大空」の部分である。

僕が池田さんの著作を通して教えて頂いたこと、気づかせていただいたことのうち、一つはこれだ。

正確には”大空の素晴らしさ”だ。

”無限性”といってもいい。





朝、会社への道すがら、空を見上げる。

”ほら、永遠がそこにある。”


池田さんの声が聞こえる気がする。







夜の大空と昼の空。同じ本質であり、陰と陽の関係にあるもの。


ヘルマン・ヘッセは”ガラス玉遊戯”のなかでこう述べる。

”世界の神秘の内部では、吸う息と吐く息、天と地、陰と陽の往き来のうちに、聖なるものが不断に成就される。”

  (ガラス玉遊戯 P.104)

空に接して、僕は聖なるものに接しているのか。

”聖なるものは、「生」と「時間」を親として産み出される”

そんな言葉が出てくる。


不死なるものに、魂はないという。

そうであれば、魂とは哀しみの謂い、であろうか。


人魚姫は死すべき定めの”ヒト”であるままに死ぬ。

死して、魂を得、昇天するのだ。


”死ぬことで、魂が得られるのであれば、

 魂は悲しみと同義語であるか”


先ほどと同じことを言っている。。



アリストテレスのいう、”エンテレティア”。
”円現”と訳すらしいが、可能性が眼前に現出すること、という風にイメージしている。

聖なるもの、大空、そして魂。はたまた”死”。


池田さんが指し示されるものはいつも、
・・・あまりにも”本質”だ。

ヘルマン・ヘッセ全集 (15)ガラス玉遊戯

ヘルマン・ヘッセ全集 (15)ガラス玉遊戯