池田晶子さんが、40歳を迎えられたのは取材中のウイーンであったが(2001年哲学の旅)、40歳を越えて考えることが得も言われず面白くなってきた、と述べられ、歴史、というものに興味がわいてきた、と述べられた箇所があったように記憶する。
ちょっとどこでおっしゃっていたかはいま発見できていませんが・・
いずれにせよ、その一言で”歴史”というものに興味がわいた。
学校でいう歴史は、どちらかというと年号と人名の暗記科目という印象で、暗記力が大変に低い、と小学校の塾の個人面談で母親といっしょにいるときにいわれ、今でもたまに熱をだす、とまではいかぬともその後の自分の精神形成に大きく影響を与えられた身としては、特に興味がある科目ではない。
覚えようとしたら覚えられないのだ。
そんな感じでアンテナを張っているわけだが、よきアプローチを見つけた。最近読んだヘッセ”ガラス玉遊戯”P.151から。
- 作者: ヘルマンヘッセ,高橋健二
- 出版社/メーカー: 復刊ドットコム
- 発売日: 2003/12/31
- メディア: 単行本
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”世界史の中で最も心引かれる、驚嘆すべき、研究に値するものは、個人でも、一時の大当たりでも、成功や没落でもありません。私が愛と飽くことのない好奇心を向けるのは、むしろ私たちの修道会もその一つであるような現象、あの非常に生命の長い組織なのです。そこでは、精神と魂という観点から人間を集め、教育し、変える試み、つまり人間を優生学によってではなく教育によって、血によってではなく精神によって、奉仕することも、支配することもできる貴族を作る試みがなされるのです。”
これを読んではっと気づかされたこと。それは学校で学ぶ歴史があまりにも個人に偏りすぎていることだ。精神史、というものにほとんど目を向ける余裕がなかったことだ。
しかし、精神の流れ、組織としてなにかをなそうとする長い試み、”伝統といったものが、これは大変に面白いものなのではないか、ということに、気づいたのである。
それは目立たないが故に隠れてはいる。ただし場合によっては個人間で脈々と受け継がれ育まれる。
そう、あの”精神のリレー”のように。
そんな視点で歴史を見直してみれば、それは”暗記の科目”ではなくなってくるに違いない。
いや、歴史好きの方には当たり前のことかもしれないが、
そんなことを感じたのである。