夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

趣味が広い。

 

こんな僕周辺の雑多な状況を、「趣味が広い」とよく形容される。少なくとも、鉄道模型、模型飛行機、ミニチュアカー、フィギュア、骨董品、電子工作、イラスト、小説、詩、写真、などなど、数々のジャンルに手を染めていることは事実。だが、ここで一言いいたい(中略)。

 そのジャンルは僕が決めたものではない、ということ。既存の枠組みで分類しようとするから、クロスオーバーしていて、あたかも手広くやっているように見えてしまうだけだ。僕は、単に、そういったジャンルに拘らず、自分の好きなものに素直に手を出しているにすぎない。 

 逆に、同じジャンルのものでも、嫌いなものには全然興味がない。

 

 

 森博嗣 悠悠おもちゃライフ P.45 (ハードカバー版)

 

森博嗣氏のエッセイをポロポロ読んでいる。

 

ど文系と自らを卑下的に誇ってきた身であるので、文章をよむのがそもそも苦手で、漢字や名称が覚えられないのに、数学や物理でN大学に合格、その後同大学にて教育者として勤務される日々に単なる”効率のいい一人でできるバイト”として小説を書いて戦略的に数百の小説やエッセイ、絵本などを刊行された森氏と、自らとを比べるべくもないしおこがましいのであるが、”似ていないが故に目から落ちる鱗が妙に多い”。”

 

物心ついてからのち、どれだけの”常識”、”ルール”という名前の押し付けを受けてきただろう。受け入れるときにはたいがい心の奥で”いやだなあ”や”なぜこんなことを”という小さな呟きが起こっていた。だが、一旦受け入れて、慣れてしまい、こころが摩耗すると、そのことはそのこととして”受け入れてしまう”。

 

慣れ親しんで、もはや自分にとって”あたりまえ”になってしまった、受け入れたときにちくりと嫌だったこと。森氏の諸エッセイを読むうちに、そうした小さな”嫌だなあ”を、軽やかに飛び越える氏の姿を見た。

 

それをごく自然に氏は問うのである。なぜそうするの?合理的な理由はある??

 

そう、”合理的”。私がなぜ”ど文系”を名乗るのか。それは”あなたは合理的に考えていない”という未来の糾弾(誰から?)を避けるため、自分がすきなことを好きなようにすることが、外形的には”合理的でない”などと悲しい評価を受けたりすることが多かったからだ。

 

だが、どうやらそうした”合理的”は森氏の”合理的”ではないようなのだ。

 

もっとよい”合理的”。本質を探り、そこから生まれる”合理的”。

 

もちろんすべてが自分にピッタリの考え方、というわけではない。だが、そこにある”なぜそう考えるか”という理由を、わかりやすく”理系的”に説明してもらうと、ぽろぽろぽろぽろと、凝り固まった眼の上のうろこたちが落ちだすのである。

 

で、なんだか心が軽くなる。森氏の著作を読んで、文系だ、理系だとあまり言わなくても、と思った。(しかし昔は9割9分は算数ができないことの言い訳のために言っていた)。

 

で、趣味。確かに自分も。

 


好きなことを好きなようにしかしていない。

 

 

美術鑑賞が好きなわけではない。

好きな絵を見たいだけだ。

 

読書が好きというよりは。

読みたいジャンルの本を読みたい。

 


当たり前だが、当たり前であることを忘れていたこと。

 

そういう気づきがあるから、森氏の本が売れている、ということなのだろう。

 

悠悠おもちゃライフ (講談社文庫)

悠悠おもちゃライフ (講談社文庫)

 

 

オードリー・タン氏の言葉と地球人。

例えば、在宅勤務や、遠隔治療、自宅学習、製造ムーブメントのような分野で、規制が時代遅れで理解できないものであれば、人々は規制を全て無視するようになるでしょう。
それは民主主義社会にとって危険です。人々が法律を習慣的に破るようになってしまうからです。
しかし人々は、私たちがやっていたことについて「法律と規制は時代に即している」と感じていたと思います。
アルゴリズムやコードをきちんと伝えることで、適切な規制ができます。それは、市民社会がまず基準を作り、その基準が市場や規約を作り、規約が法律になるという、先ほど述べたリバース・プロキュアメントです。
この流れが予測可能であればあるほど、既存の政治システムと社会との摩擦は少なくなり、政治システムは実際の社会と融合するでしょう。


引用:ハフポスト日本版 8月25日記事より

2010年期の世界価値観調査(主要国における組織・制度への信頼度)


2010年期の世界価値観調査(主要国における組織・制度への信頼度)(*)を見ると、日本で最も信頼度が高いのは信頼度70%代で裁判所、新聞・雑誌となっている。テレビの信頼度も60%代と高い。

対して政府への信頼は20%代、議会・国会、政党への信頼は10%代であり、調査項目中下から2番目に低い。

アメリカの状況を見てみると、最も信頼度が高いのは80%代の軍隊である(日本の自衛隊は60%代)。日本で最も高かった裁判所は50%代とやや下がり、テレビ、新聞・雑誌は20%代と日本と比べだいぶ信用度が低くなっている。

調査項目で上がっているもので、日本で最も低いのは、宗教団体で10%以下、これは日本において神を信じる層が、他国と比べ極端に少ないこととも整合するだろう。米国では、宗教団体は80%代の軍、60%代の警察(日本も同じく60%代)に続き、裁判所とならび第3番目の50%代を占めている。

アメリカでの政府は30%代の信頼度、議会信頼度も20%と日本より若干高いものの、低めとなっている。

英国でも、政府や議会への信頼は10%代と低く、マスコミも同じく10%代となっている。

こうした国々では、政府への信頼はあまり高くなっていない。当然ながら様々な支持政党(無支持含め)があるわけであり、信頼度が割れるのは仕方がない面もあるだろう。だがスウェーデンでは50%代、韓国でも40%代と、時の政府(本データは2010年期なのですこし古いが)にもよるだろうが、世界を見ると政府が全て支持率が低いわけでもないようだ。

政府の存在感と評価機会が高まるのは、平時よりは非常時であろう。

そういう意味で今回いまだ真っただ中のコロナへの対応に対し、普段はそれほど政府へ意識のない層も含め、改めて政府というものを考える機会となった。

冒頭で引用したのは、台湾の35歳のデジタル相、オードリー・タン氏の言葉である。コロナに対応し、どこにマスクの在庫があるかを示すソフトをタイムリーに公開するなど、台湾でのコロナ鎮静化に大きな力を示された方だ。

マスクと聞いて、そしてこのタン氏の言葉を読んで思い出したのは同じくコロナへの対策として配られたいわゆる”アベノマスク”のこと。マスクが不足しているので、政府主導でマスクを配ろう、という発想はよし。だがあのデザイン。

さんざんに言われていることなので今更ではあるが、個人的に感じたのは”マスク不足の緊急時なのだから、国民はありがたがってどんなダサいマスクでもとりあえず押し頂いて使用すべし”という押し付けがある、というものだった。

たぶん、実際はそれほどあからさまな意向はなかったのだろう。だが私はどうも子供の頃から押し付けられるのがなんとも嫌なのである。もし、もし顔に装着するのが(身の安全に加え)すこしでも楽しみになりときめくような要素があるマスクであったなら(先進技術とか)。まだしも”普通の”マスクであったなら(もうすこしでいい、幅が広ければ)。

それほど微妙な気持ちは持たなかったはずである。

”デザイン”や”使用するものの思い”などは、緊急時には二の次三の次なのだ、といわれているような気持ちが、なぜかしたのである。

私も生活のなかで、特段わざわざ文句を言うことはなかった。そもそも日本人平均の政府信頼度20%代であれば、まあ、こんなものだろう、ということになる。受け取り、感謝して、そっと横におく。

だが、タン氏は違う。

規制が時代遅れで理解できないものであれば、人々は規制を全て無視するようになるでしょう。


そう、アベノマスクにがっかりして、頂いたものなので無碍に捨てたりはしないがそっと置いておくという態度、これは理解できず、規則を無視する(ことさら無視したいわけではなく、どこか残念な、申し訳ない気持ちさえ内包しつつ)という行為と地続きだ。

繰り返すが、できればそうはしたくないのだ。

もう少しだけでも、幅が広ければ。。。

 


そこのところをよくわかっていて、人々が行ったことに対し「法律と規制は時代に即している」と感じていた、と実感しているようなことを行い、考えている大臣がいるのだとしたら。

 


これは、なかなかいいぞ、と思ったのだ。

 


世界の中で人々の意識は既に地球に住む人類の一員、というものとなっていると感じている。多寡はあろう、国にも、政治にもよろう。だが、程度はさておきすべからく今、人々は感じているだろう。

そこでは、たぶん、例えばそうしたことは台湾でのみ行われた、という風には感じない。

地球内で、良き認識に沿った、良き対応が行われた。

そしてそれはたぶん、自分と関係がないわけではない。

 


そうした希望が持てることが、”地球人である”という意識の、良き点で、

あるのだろう。

 


(*)文中 2010年期の世界価値観調査(主要国における組織・制度への信頼度)の情報は、Honkawa Data Tribune 社会実情データ図録(本川裕氏サイト) 記事を参考とさせていただきました。

 

 

Au オードリー・タン天才IT相7つの顔

Au オードリー・タン天才IT相7つの顔

 

 

宗教とはなにか。(宗教間の関係性もふくめ)

 

宗教、というものは、現代日本においては非常にセンシティブな事柄となっていると感じる。

 

人々への宗教へのアレルギーが大きく上昇したきっかけは、やはりオウム真理教であるだろう。

 

カルトに分類される同教であるが、ヨガ教室を経て精神世界の要素を導入、出家形態の仏教集団として密教ヒンドゥー教キリスト教疑似科学ニューエイジ等の思想を導入した教義を作成した。

 

平成の宗教状況を紹介した釈徹宗氏の論説(*)を読んだ(上記オウムの情報も同稿による)。

 

その中で、世界の各宗教間のさまざまな関係性が紹介されていたものが、大変参考になったので、備忘の意味も込めて記載しておきたい。

(*)内田樹編 街場の平成論 2019.3.30初版 晶文社刊 (同論説は同書への寄稿、釈徹宗「平成期の宗教問題」から)

 

宗教同士の諸関係論

 

宗教同士の関係は、宗教自体の社会の中での位置づけの変化に伴い変化してきている。そも原始時代であれば、それは部族を導き、方向性をしめすきっかけとなるシャーマニズムであったろうし、文字のない過去の記憶から立ち上る神話でもあったろう。

 

そこにある神々は、自然の擬人化であったろうし、支配体系を権威づける仕組み(場合によっては方便)でもあった。また、死を厭い、今世の意味を求める意識への意義付け、日々の暮らしのよすが、そして道徳的な導き、といった面も持っていた。そして社会組織を人の意識面で強固にする生活面での密着性をも持っていた。

 

そうした形でさまざまな理由で世界各地に生まれた宗教であるが、世界、というものを意識した際、あるいは異国、異文化とのコンフリクトの際に別の宗教体系との邂逅、遭遇が発生した。

 

そのとき、果たして別の宗教をどのように定義付けるのか、ということは大きな問題となったろう。

 

当然ながら”侵略者の異文化”として遭遇すれば、そこには反発の関係のみ発生する。だが、不幸にして侵略されれば、次には異教への改宗を強制されることになる。場合によっては治世しやすくするための侵略宗教による被侵略宗教の取り込み、もあった。

 

このように文化の揺籃期においては、宗教とは”対立するもの”というのが基本になるだろう。

 

現代における宗教間の関係

 

現代においても宗教はイスラム教の欧米での状況をはじめ対立する要素が強い。

 

だが、冒頭で述べたように、例えばここ日本という国においては、宗教というものは”基本社会生活とは離れたもの”という意識が強い。これはキリスト教国においても、日本と同様、とは言えないながら進んでいると思われる。

 

例えばキリスト教イスラム教が、同じく日々の生活に染み入り、律するものであれば。2つの宗教は過去と同じく対立の構図が中心になるのだろう。

 

しかし、イスラムに比して、キリスト教国、あるいは日本のような国においての宗教の位置付けは、政教分離の原則を例に出すまでもなく、自然に、人々の意識の中で変化している(ただし、各国アンケートによると、日本における宗教の意識は欧米と比べても特に低いようだ。それに対し米国ではこれは欧州と比べてイメージよりも大きく宗教的である。あるいは共和党民主党の対立のなか、とくに共和党支持層(特に南部の、銃社会で進化論を信じない層)の影響が大きいのかもしれない。また日本においては、”私は宗教を信じている”という位置で暮らすことへの心理的ハードルが余りに高い気がする。日本人の意識のなかで、”敬虔に、宗教心(神を信じる信じない、の2択ではなく、神羅万象を大切に思うこころのような)を大切にする”という項目については、他国では単純に(神を信じている)という回答と同じような部分を占めて、肯定的になる。多分、質問として”神を信じるか、YES,NO"の設定が、日本人にたいしてはすこしミスマッチであるのかもしれない)。

 

そもインターネットを通じ、人々の意識や生活は、すでに大きく仮想空間へ移動しているとも言える。SNSで、否が応に、国境を"越えさされている。”

 

そこでは、”宗教”はすでに触れるべきではないタブーでもなく、論じることがはばかられすぎる、ということもない。

 

そこで出てくるのが、”どのように宗教間でやっていくのか”である。

 

ここで少し宗教に関する対話の態度について説明しよう。これについては、アラン・レイスが三つのタイプを提示している。排他主義(exclusivism)、包括主義(inclusivism)、多元主義(pluralism)の三つである(Alan Race,"Christians and Religeorous Pluralism",SCM Press)
まず、「排他主義」とは、自宗教を絶対視して、それ以外の宗教に意義を認めない立場を指す。例えば、3世紀初頭の教父・キプリアヌスの「教会の外に救いなし」といった言葉に代表されるような立場である。(中略)宗教は信じている者と信じていない者との境界を生み出す。その境界を生み出さないような宗教であれば、生きる力にもなり得ないであろう。大切なことはその境界を超える回路をどう担保していくかである。
 次に「包括主義」とは、自宗教の絶対性や優位性を保持しつつ、多宗教の意義を認めようとする立場である。キリスト教で言うならば、キリスト教の眼から多宗教の意義を認めようとする立場である。たとえば、本地垂迹説(日本の神々の本性を仏教の仏であるとする説)は、包括主義の実例として見ることができよう。(中略)つまり、自宗教と他宗教は断絶しているとする排他主義に対して、包括主義では何らかの連続性・共通性があると捉えるのである。ただあくまで自宗教中心の見解なのである。
 そして第三の立場として提唱されたのが、「多元主義」であった。一九八〇年代に注目を集めた宗教多元主義は、自宗教と他宗教を並列に捉える立場であり、価値的優劣を判断しない。多元主義の思想を展開したジョン・ヒックは、しばしば「神はさまざまな名を持つ(普遍の神がそれぞれの宗教の名で呼ばれているだけ)」「ランプはいろいろと違いはあるが、中の火は同じ」といった比喩で、それぞれの宗教が通底していることを主張した。

 引用:平成期の宗教問題 釈徹宗 P.229-231 街場の平成論 より

 

 国により、その歴史、文化、人種間の違い(生活や慣習からくる考え方の違い)により、発生する宗教や神の形態が違ってくるのは当たり前である。そも通信し、対話し、相互で理解することが困難であったのだから。

 

しかし、今の時代、インターネットにより、国家間ではなく、個人間の自由な、主体的な、個人の嗜好に沿った”世界との接触、会話”が可能になったきた。個人的にもたとえばインスタグラム、好きな写真の解説が一瞬で翻訳でき、その感想が伝えられる/受けられる。

 

もちろん宗教問題といったセンシティブな会話をインスタで実施することはすぐには困難だろう。しかし、国家間の対立を通した国民間のコミュニケーションではなく、個人が、すきなように、すきな相手と、コミュニケーションできるわけである。勢いそうした相手との”はらを割った”会話の可能性も高まるだろう。この変化は、その中でその機能を享受しているとあまり感じないが、大きなものである。いや、すでに感覚的には人は”地球在住の人類のうちのひとり”として自らを把握し始めている。

 

青山俊薫老師の言葉

 

たとえば、今日、購読している雑誌「致知」11月号で、愛知専門尼僧堂堂頭を務める青山俊薫老師のインタビューを読んだ。5歳で出家、87歳になる今までを修行に努めた方の言葉だ。

 

17年間師事した(傍で直接仕えたわけではない)澤木興道老師の言葉として、「仏法とは相手を変えるのではなくて、こちらの目を、こちらの頭をつくり変えることだ」を挙げられている。またともすれば人は「欲」というものとの距離を測りかねて、欲を無理やり肯定したり、無理やり否定したりするものだと思うが、その欲を

 

人間には誰しも欲があります。この欲というものは命のエネルギーですから、とても大事なものです。 言い換えれば、気づく、気づかんに拘わらず天地総力を挙げての働きをいただきながら、この命があるわけです。

とされる。

 

命が尊い、自らの命がかけがえがない、と人はまずは思っている。が、どこかで不審の念があるものだ。自らの命、生きていることに意味は特段ないのではないか。

 

生まれてしまった、あとは死ぬまで生きるしかない、という。

だが、尊くはなくとも、意味はなくとも、天地の中でこうして“生”があり、生まれ、老い、病気を経験し、死ぬ。このことが奇跡的であることは間違いない。

 

この世にあることはすべて奇跡的なことであり、軽重もない、卑賎もない、重要であることもないこともない。

 

そこに気がつくこと、そうすれば、

 

澤木老師はそれを「天地一杯の命」、内山老師は「皮の突っ張りの中だけで生きているのではない」と表現されました。

致知 2020年11月号 P.17)

となる。

 

そう、無境界、である。一である。すべては全になる、である。

 

こうした”一”に宗教の差異による違いはあるのだろうか

 

勿論、私は各宗教に通じているわけではない。だが、その底にある、それぞれの宗教が求め与えようとすること。

 

偉大な宗教の、その教えの本質には、通底する真理があるように思う。

そう、真理。

 

そしてその真理を伝え、分かち合い、分かり合い、それを生きる。

 

 

そのことを行おうとする行為、魂こそが、”宗教”といわれるものの本質では

 

ないのだろうか。

 

 

 

 

 

泥があるから、花は咲く

泥があるから、花は咲く

  • 作者:青山 俊董
  • 発売日: 2016/12/08
  • メディア: 単行本
 

 

存在と存在者。

コロナだ。

ひねもす家に居ると、うつうつとしてくる。

何のために生きてるの?と自問することともなろう。

このようにエックハルトにとって「存在」は、我々にとってのように、この上なく空虚なものではなくして、測れないほど豊かなものであり、「自らによって豊か」(dives per se)である。
「存在する」ものになる人は、そもそも存在の充溢の豊かさに踏み込むのである。

 R.オットー 西と東の神秘主義 エックハルトシャンカラ

 1993年 人文書院刊 P.46

オットーは言う。エックハルトの認識は、存在は”我々にとってのように、この上なく空虚なものではなくして”。

そう、やはり太古から、古代から、中世から現代まで、”人は結局生を無意味なものとして見切らざるを得ない”。

そしてそのことに、深く絶望する。例えば、ここ、令和コロナの時の中でも、より身近に、日々、”無意味な生を実感する”。日々の忙しさのなかで、その無意味性を、知らないこと、無いことにすることが難しい。

実感、詠嘆し、悲嘆に落ち込む。

無意味な生を実感する、そして。

 

それは、とてもしんどい。

それは、逃れたい境地でもある。

 

からして、逆に好機、となる。

 

そも、存在するとはなにか。存在者とはなにか、という問いへの没入への。

我々は「存在者」(Wesen)を、それ自身においてあるような、裸で純粋な存在として把握する。その時には(まさしくその純粋な存在性のもとにある時には)存在者は認識や生よりも高い。なぜなら存在者が存在者であることによってこそ、それが認識や生を持つからである。

前掲書 P.47

そう!

”存在者は認識や生よりも高い”のである!!

 

生が無意味だ=認識

生の中に、生きるものとして在る。=生

この牢獄的自然自己意識を、改めて意識せねばならない。

牢獄、流刑地、エデンからの追放者たる我々が、エデンに帰還することができるのは、このあたりが実はキイワードなのではないだろうか。

 

我々は、存在する。存在=無意味、牢獄、生老病死、と思っていますよね。

でも、本当にそうでしょうか?

 

というなんというか、考え。気づき。

生老病死の先にあるもの。

 

この日本という国にいると、「空気」がある。

山本七平は『「空気」の研究』(文春文庫)で空気をこう規定する。

非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として(中略)社会的に葬るほどの力をもつ超能力

コロナによりこうした空気を皮一枚の身近に感じるようになった。これはたとえば学生時代の恐怖、”いついじめにあうかもしれない”という恐怖と地続きだ。

社会の中で孤立し、見えない恫喝が日々襲い来ることに怯え続ける恐怖。魔女でもないのに単に仲たがいした隣人の密告により魔女として捕らえられ拷問にさらされ粛清処刑される魔女狩りの恐怖”コロナの濃厚接触者になることは日々腐った血を垂れ流し続けるスティグマを、決して消えることのないスティグマを、己の皮膚に刻まれることだ。

そう、ベルセルクの、ガッツの刻印のように。

感染可能性がもたらす、社会的抹殺、風評による個人の尊厳の抹殺。

ではどうすればいいのか

いわゆる行政に頼ればいいのか。

ここで池田謙一氏(同志社大教授)は述べる。

日本人には、統治者は危機にまともに対応できないだろうと考える「統治の不安」がある、

と。

確かに、自らの内に、今までの生活の中で得た感覚として、それがある。

どうせ、言っても、無駄だろう、という。

どうせ失望するのなら、そもそも期待しないようにする、という。

罹れば、風評は来る。行政は無力だ。

であれば、祈るしかない。身をすくめ、嵐が通り過ぎることを、ただ震えて祈る。

そんな日々だ。

魂が神を被造物のうちで認識する時は「夕日」である。
魂が被造物を神のうちで認識する時は「朝日」である。
しかるに、魂が神をただ存在者に過ぎないものとして知る時は白日である。
それゆえに人はこの白日を、あたかも狂える情熱のもとでのごとくに熱望すべきであり、存在者がかくも高貴であることを観照すべきである。

  R.オットー 前掲書 P.47

そんな日々を過ごす分割されたという認識にとらわれた一であるわれわれ/

私の魂は、日々を、この世界を、神を、全を、どう認識すべきであるのか。

一生消えることのないスティグマの燃え盛る震える刻印を、目の前に、すぐそばに、じりじりと近づけられて恐怖に慄いている今。

 

だが、そういう時だから。

考えずにはいられないから。

 

もしかすると魂は、深く、感じだすことができるのかもしれない。

 

いま、ここで、”この世にある”、という感覚。

慄きつつであるのかもしれないが。

だが、ある。恐怖と共に。

 

生、とは

 

なにか。

 

そして、そこにはもしかして、存在の計り知れない豊さ、充溢する豊かさ、さえも、

 

あるのかもしれない。

 

 

「空気」の研究 (文春文庫)

「空気」の研究 (文春文庫)

 

 

坐禅。

禅マインド ビギナーズマインド (鈴木俊隆著)を購入した。

74ページから引く。

私たちの修行は、ある考えを得ることでもなく、なんら期待も、たとえ悟りへの期待も持つことなく、行わなければなりません。それは目的なしに座ることとは違います。ある考えを獲得しようとすることから解放された修行とは、般若心経(プラジュニャー・パーラミター・スートラ)にもとづいています。しかし、注意しないと、心経それ自体が、なにかの考えを与えてしまいます。

対価を求めること。

たとえば、人は”試験に合格するために学ぶ”。

成果を得るために物事を行うことは、日々の暮らしのなかで普通に行っているものだ。

だが、結果を求めるという気持ちが強いと、思う通りの結果が得られない、あるいは遠大な目標にたどりつくまでに、息切れし、挫折することがあるし、そうなってしまうことへの恐怖を心の意識しない底に抱えての営みとなることが多い。

これは、しんどい。

なので、例えば小さな目標、ステップを決めることなどが推奨されるわけだが、ここではそもそもなにかの対価として結果を求める、ということの含む、苦しさ、および功利性への嫌悪が問題であるように思う。

純粋な行為ではない、と人のこころは知っているのだろう。

ゾーンに入る、古くからの言い方では、”三昧境”ともいえるかもしれないが、行いそのものに没入し、結果を得ることから自由になる、ということ、”今”を意識し、”時間”や”将来”を思い結果を求めることがないこと、これが一番身近な幸せであり、そこを意識すれば、”今の連続”を幸福に”ただ満足して生きる”ことができるだろう。

鈴木師はそのことを言っている。

禅、修行、これを”悟るために課された課題”、”対価として悟りを得る手段”と考えること、ここを避けることが、まずは肝要であるようだ。

だが、では、修行が必要ではない、ということではない。

二元論に陥る

般若心教は「現象(フォーム)とは空(エンプティネス)である、空はそのまま現象である」といっています。しかし、こうした考え、ただこれだけの考えに執着してしまうと、二元論に陥ってしまいます。

そもそも一つであるこの世のすべては、多数、複数、二元である、と感じ理解しやすい、しがちなものでもあるようだ。

そうしておくほうが、”安心だ”。”そもそも生老病死すべてが空だ、ということかもしれないが、それでは生まれた理由がない。生きてゆく理由もない”ので、”二元論で理由があることにしておく”。

どうも人は、本当の心の奥底では、すべての人が分かっている気がしている。”二元論はしょせん方便だ”と。

だが、そのことを抑圧し、ないことにし、気づかないふりをする。

そのほうが”表面的には楽である”。

そのこととは、その事実とそのうち、は”そもそも生まれてきたことに意味はない”だ。

生まれてきたことには意味がないのか。

 

意味がない、という事実を見据えたときに、初めて意味とはなにか、そして、そのことを起点に考え、”ただ生きる”ことができる。

そこにこそ”今”があり、”三昧”や”ゾーン”があるのではないだろうか。

ここにあなたという現象「色(フォーム)」がある。こちらに空というものがある。そしてあなたは現象をつうじて「空」を認識しようとしているのだ、というふうに。そこで「現象とは空である、空はそのまま現象である」というだけでは二元論です。さいわいなことに、われわれの教えは、「色は色であり、空は空である」といっています。ここには二元論はありません。

人はすぐに”二元論に頼る”。

二元論はわかりやすい。

生まれて人は、(結果としての)食事が欲しければ、そのことを求めよ。と学ぶ。もちろん生まれてすぐはそうではないかもしれない。

しかし、そのうち、学ぶことなる。

結果を得るためには、することがある。

得たいがためには、代替行為が必要だ。

 

で、代替行為に、(過分な)意識が向く。

その行為自体が、”楽しくない”とき、楽しくなければ楽しくないほど、

”こんなにしんどいのだから確実に結果が得られなければ困る”になる。

”困る”?誰に対する異議申し立てなのか??

だれかが、”結果を与えてくれない可能性”に困っている。異議を申し立てている。意識の自然な働きとして。

 

これが”他責”の始まりだ。

だれの責なのか。

 

そして”他責”こそ不幸のはじまりなのだ。

よくある”他人との比較は不幸の始まり”という智慧

そこにも同じ”人が無意識に陥りがちな不幸の型、考え方の癖”がある。

 

乳幼児であれば”保護するもの”である。学校であれば学校の仕組みであり、教師の、であろう。

では、座禅のこの足の痛みは。”これだけ修行したのだから"。

 

それは、”仏”に対する他責であるのかもしれない。

”修行したんだ、悟らせろ!”

 

ああ、これはしんどい。

近くにいこうとして、最も遠くにいる。

 

座っている間、心を止めることが難しく、止めよう、止めようとしている自分がいるのがわかったら、その段階は、「現象とは空である、空はそのまま現象である」ことを認識しようとしている段階です。しかし、このような二次元的なやり方で坐禅をしていくうちにも、次第に自分と、坐禅のゴールとが一つになっていくでしょう。そしてなんの苦もなく座っているようになれば、心は止まったのです。これが「色は色であり、空は空である」である、という段階です。

なにかをしないように、と思う心は、”しないように”という語が入っているので、効果がある、と人は思ってしまうものだろう。

だが、なぜか、魅入られたように、”しないようにしている”行為に引き寄せられることはないだろうか。

勉強せねばならぬ、マンガを読むなどもってのほか。

そういうときに読むときのマンガの面白さ。魔力が降臨したような魅力のストーリー。学生時代、そらが白々と明けてゆくなかでの全巻読破。

この”やってしまった感”の甘美なること。

いささか残念な例になるが、皆さんもおおかれすくなかれ経験がおありではないだろうか。いや、自分は真面目だから、というかたもいるだろう。

だが、なにかの代償としての行為を開始するときの”そこはかとないストレス”。物事は始めるのに一番エネルギーがいるという、あれ、である。

そこ、にあるのが二元論、だ。

座るために座る。

座りたいから、でさえない。”ただ、座る”。

だが、そこに至るには”型”が必要だ。ある段階にあるわれわれの心を、そこから”ひっぺがす”仕組みとしての”型”。それがここでは”坐禅”という型になる。

座ることを、座ることとして、座る。

思うことを、思うこととして、思う。

心を止める、ということは、心の動きを止めることではありません。あなたの心が全身を浸している、ということなのです。心は呼吸に従います。そうした全身に満ちた広々とした心で、あなたは手に印相(ムードラ)を結びます。そうした広々とした、開け放たれた、満ちた心で、足の痛みにわずらわされることなく、座ります。これが、なんらの考えも得ることなしに座る、ということなのです。はじめは、こうした姿勢を窮屈と感じるかもしれません。しかし、そうした窮屈さにわずらわされないでいると、あなたは「色は色であり、空は空である」の意味がわかります。窮屈さの中で、自分の道を見つけること、それが修行の道です。

生とはなにか。意味はないのだが、その時点にいて、かつ貪欲に”今”に”三昧する”。

自分の人生が短いと知ること、一日一日、一瞬一瞬を楽しむこと、これが「色は色であり、空は空である」という人生です。ブッダがやってきます。あなたは歓迎します。

一瞬は永遠であり、永遠は一瞬である。

このことを考えたとき、”時”とは、かりそめの仮定であることに気づく。

時とは、永遠を切り取れると誤認している”こころの迷い=エゴ”による語のこと。

 

であれば、”時は無い”。

 

参照:

サンガ新書055

 

禅マインド ビギナーズ・マインド

禅マインド ビギナーズ・マインド

 

 

著者 鈴木俊隆

訳者 松永太郎

2012年7月1日第1刷発行

 

 

神秘主義。

図書館でルドルフ・オットー著”西と東の神秘主義 ーエックハルトシャンカラ”を借りた。

 

 

Rudolf Otto (1869-1937) 

 

オットーは1933年8月に「ヨーガと東西の瞑想」をテーマとし、C.G.ユングの講演で開始された「エラノス会議」を企画し、場所を提供したオルガ・フレーベ=カプティン女史に、「共に食べる」という意味のギリシャ語、「エラノス」を与えたドイツの宗教学者神学者である。

本書は1923年ー24年のオバーリン大学での講義を元にして、1926年に刊行された。

オットーは本書に先立って1917年に発行された「聖なるもの」にて「ヌミノーゼ」という概念を作ったことで有名である。

 

 

聖なるもの (岩波文庫)

聖なるもの (岩波文庫)

  • 作者:オットー
  • 発売日: 2010/02/17
  • メディア: 文庫
 

 

 

聖なるもの

聖なるもの

 

 

オットーが対象とする宗教体験は宗教経験は神的なるものの体験である。その体験の独自性を表すのに彼は新しい語を鋳造した。すなわち「ヌミノーゼ」という概念がそれである。

P.366 R.オットー ”西と東の神秘主義” 訳者による解説とあとがきより

 

神の観念から一切の神学的、教義学的および論理的な意味合いを取り外し、神の神的な部分を端的に指し示すために「聖」(Heiling)という語を選ぶ。つまり神は「聖なるもの」として捉え直されるわけである。(中略)それだけではなく、オットーは宗教体験において感じ取られる神的なものに言葉では言い表せない側面を見る。概念化しようとすると必ず「はみ出し部分」が出る。

同P.367-367

 

この”はみ出し部分”をも含んだ本来の"聖”の意味を表す語として、オットーはラテン語で神や超自然的な力を意味する numen から numinous なる語を作り、言語表現を超越する本来の“聖なるもの”を”ヌミノーゼ”と呼んだ。

 

本書はそのオットーが、”東洋と西洋の思想世界は決して出会うことがなく、最も深い根底においては互いに理解しあうことのないほど異なった、比較できないものなのであろうか(P.17 同序文)”という問いを、”人間精神の最深部分から現れる”神秘主義あるいは神秘主義的思弁を通して答えようとした”ものである。

 

そしてそこでは、中世ドイツのマイスター・エックハルトとインドのシャンカラが選ばれた。

 

引用されるエックハルトの告白をまずは見てみたい(傍点、あるいはサンスクリット語(らしき)部分を一部略し、一部段落を変更(追加)している部分があります)

私が神から歩み出た(すなわち多の中へ)時に、万物が「一つの神あり」と語った(この神はイーシュヴァラでもあり、人格的で、事物を創造する神である)。さて、それは私を至福にすることができない。なぜならその場合私は被造物として理解されているからである。

しかしながら、突破においては(真の完全な知識 samyag darsanaにおいては)私は被造物以上のものである。私は神でもなければ被造物でもない。すなわち私はかつて私であったものであるとともに、今も、そしていつでも私がそれに止まるであろうところのもの(niyamukta としての atman)でもある。

そこで私は、天使よりも高みに持ち上げられるような衝撃を受け取る(muktaは一切の神々devaおよび彼らの天界の上にいる)。その衝撃の際に私は大変豊かになるので、神(Isvara)の神たることからしても、またその神的業からしても神は私を満足させることができないい。

なぜならこの突破のもとで、何と私は私と神とが共通であるところのもの!を受け取るからである。

そこでは私は、かつての私であったところのものである。そこでは私は増加も減少もしない。何となれば、そこでは私は、万物を動かす不動者(acala)だからである。ここに至って人間は、彼が永遠にそうなってしまったもの、そして常にそうあり続けるであろうものに再び到達したのである。

ここにおいて神は精神の中に引き入れられたのである。

P.37-38 西と東の神秘主義 R・オットー

 

はじめに”(多としての)この世で、それを創る”神”を見て、満足しない。

 

その裏、上に、ここに、そこに、”一なる”神を、”この世の神”ではない”神性”を感じたときにその神と一体化する。

 

この流れ、やはり今まで見てきたグノーシス思想(もとはプロティノスか)、シャンカラのアドヴァイタ哲学、そして”大乗神秘主義”ともいわれる大乗仏教や禅。鈴木大拙の禅。

 

これらとの共通性はなんとも明らかだと考える。

 

東洋、西洋、時代の差異はあろうとも行き着くところの共通性(縦に開くか横に開くかの”性格の差”はあろうとも)。(上田閑照集第8巻 P.2 ”神秘主義から非神秘主義へ”より。)

 

エックハルトの"告白”では従来の神に満足せず、そこを超えた時点を”突破”と呼んでいる。

 

これこそオットーの言う”ヌミノーゼ”、言葉を超越した表現できない(=従来の神理解を超えた)ということとも

 

繋がる感覚、なのであろう。

 

上田閑照集〈第8巻〉非神秘主義―エックハルトと禅

上田閑照集〈第8巻〉非神秘主義―エックハルトと禅

  • 作者:上田 閑照
  • 発売日: 2002/04/28
  • メディア: 単行本
 

 

ブラフマン即アートマン。

読書をしていて楽しいことは、”芋づられる”ことである。

 

 

わたくし結構感激するたちのようで、ある本を読んでいて、

 

”ああ、ここでこの本を読んでよかった、というか読んでなかったらどうなっていたのか!我が人生!!”

 

という風にすぐに感極まってしまう(内面的に)。

 

 

まあ、個人で勝手に感極まっても、別に皆さんに迷惑がかかるわけでもなかろうから、私は私に、”思うがままに感極まれ!”

 

と思って自由にさせている。

 

 

で、だいたいはいままでに知らなかった世界が垣間見えるので、関連した本や情報を探し始める。この行為が”芋づられている”状態である。

 

 

なので、感極まると、その作者筆者の過去作品文章などをどんどんつぶしてゆく。

 

昔は早くたくさん読むのが良い、などと思いこんでいたが、最近はスピードがあると咀嚼味読する時間が無いように思え、読む時間(午前中がベター)、環境(なぜか家よりも電車車中などが集中できる=時間制限があることと、”群衆の中の孤独”が深いからだろうか)をあえて制限管理し、メモあるいは写経(と称する書き写し)をしながら読んでいる→書き写しをするのは、これは前にもこのブログで言ったような気がするが、あきらかに読むだけよりも頭に深く内容が入ってくるように感じられるからである。個人的な感想です(笑)。

 

したがって、読む量は減っている。そういえば、緑内障といわれ、目薬を使用していると、すこしだけ睫毛がのびる副作用もでてきた(=別にいやではない、というか嬉しい)。

 

多分昨年の今頃だったように思うが、ケン・ウィルバーの著作を読んで芋づられ、そこからエックハルト・トール、デビッド・R・ホーキンズ、ヘルメス・J・シャンブ、マハラジ、クリスナムルティ、などといった、インド系思想の森に愉しく分け入った。

 

関連して、神智学へ飛び、昔同じく芋づられた、ユングヘルマン・ヘッセグノーシス、といったところへ行きながら、マイスター・エックハルトにもたどり着いた。

 

たまたまアマゾンで、エックハルトを論じた鈴木大拙の”神秘主義岩波文庫版が発売されたのを見て、軽い気持ちで購入した。

 

もともと禅には興味があり、座布を購入し、東京在住時には円覚寺の参禅も経験してはいるのだが、そして金沢の鈴木大拙館にも(観光で!)行ってはいるのだが、

 

禅も大拙も、ちょっと深堀できてなかった、という感じであった。

 

しかし!大拙の”神秘主義”を読んで一驚!!このブログでもその驚きを最近ちょっとずつ開陳させていただいているわけだが、

 

大拙が、大乗仏教(そう、小乗仏教大乗仏教からみたいわゆる”差別呼称”であり、最近は上座部仏教と変更されたということだが、その経緯から”大乗仏教というのは歴史的変遷の違ういわば原始仏教を、呼称で貶めた(結果的にかもしれないが)宗教であり、逆にちょっとどうなのかなあ、、と深い理解は全くないままただ漫然と思っていたその大乗仏教)が、インドの非二元論などと通底し、呼応し合い、エックハルトキリスト教(異端レッテルありますが)とも通底しているとは!!

 

そこから大拙神秘主義”の解説を書かれた安藤礼二氏の”大拙”に至って、これまた一驚。

 

なんと大拙の奥さん、ベアトリスが、神智学に関係する方だったとは!

 

となんだかどんどんつながって来ている。

 

 

そして、大拙といえば盟友の西田幾多郎

 

有名な”絶対矛盾的自己同一”、この言葉に関しては池田晶子さんも何度か言及されているが、

 

このことばが実は大拙との書簡交換を通じて両者で平行し共鳴して練りあがった言葉である、ということに加え、

 

インドの宗教・哲学の関係から、その意味するところが、自分なりに立ち上ってくるように感じられた。

 

安藤氏著作に導かれるように、西田幾多郎善の研究”を読んだ。明治44年、初版の序で西田は言う。

 

この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。(中略)第二編は余の哲学的思想を述べたもので、この書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積(つもり)であるが、またこれを独立の論理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。

西田幾多郎 善の研究 岩波文庫版(エア草子版を参照) P.3

 

そうか、第二編が骨子であるのか。では、とおもむろに第二編に向かう。

 

 

哲学と宗教と最も能く一致したのは印度の哲学、宗教である。印度の哲学、宗教では知即善で迷即悪である。宇宙の本体はブラハマンBrahmanでブラハマンは吾人の心即アートマンAtmanである。このブラハマン即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。

 

西田幾多郎 善の研究 第二編 実在 第一章 考究の出立点 P.20

 

40歳目前にして西田が初めて世に問うた著作の中で、西田がもっとも云いたかったことはこのことだった。

 

これ、

 

これは確かに、最近の読書群で、すべての著者が著作が、異口同音に語っていたことに通じる。

 

そうか、西田も(えらそうですみません)。そして大拙もまた。

 

 

 

これはどうもやはり古今東西、真理は形と語り口を変え(語る人と時代が違うのであたりまえか)つつ、同じことを指示して、

 

 

いるようだ。

 

 

 

 

大拙

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  • 作者:安藤 礼二
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  • メディア: 単行本
 

 

 

神秘主義 キリスト教と仏教 (岩波文庫)

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  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2020/05/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

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  • メディア: Kindle
 

 

 

 

 

 

 

意識に先立って

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  • メディア: Kindle
 

 

 

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  • 発売日: 1951/12/04
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

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“それ”は在る

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大乗仏教概論 (岩波文庫)

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  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2016/06/17
  • メディア: 文庫
 

 

 

浄土系思想論 (岩波文庫)

浄土系思想論 (岩波文庫)

  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 2016/07/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

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  • 発売日: 1994/01/17
  • メディア: 文庫