こんな僕周辺の雑多な状況を、「趣味が広い」とよく形容される。少なくとも、鉄道模型、模型飛行機、ミニチュアカー、フィギュア、骨董品、電子工作、イラスト、小説、詩、写真、などなど、数々のジャンルに手を染めていることは事実。だが、ここで一言いいたい(中略)。
そのジャンルは僕が決めたものではない、ということ。既存の枠組みで分類しようとするから、クロスオーバーしていて、あたかも手広くやっているように見えてしまうだけだ。僕は、単に、そういったジャンルに拘らず、自分の好きなものに素直に手を出しているにすぎない。
逆に、同じジャンルのものでも、嫌いなものには全然興味がない。
森博嗣 悠悠おもちゃライフ P.45 (ハードカバー版)
森博嗣氏のエッセイをポロポロ読んでいる。
ど文系と自らを卑下的に誇ってきた身であるので、文章をよむのがそもそも苦手で、漢字や名称が覚えられないのに、数学や物理でN大学に合格、その後同大学にて教育者として勤務される日々に単なる”効率のいい一人でできるバイト”として小説を書いて戦略的に数百の小説やエッセイ、絵本などを刊行された森氏と、自らとを比べるべくもないしおこがましいのであるが、”似ていないが故に目から落ちる鱗が妙に多い”。”
物心ついてからのち、どれだけの”常識”、”ルール”という名前の押し付けを受けてきただろう。受け入れるときにはたいがい心の奥で”いやだなあ”や”なぜこんなことを”という小さな呟きが起こっていた。だが、一旦受け入れて、慣れてしまい、こころが摩耗すると、そのことはそのこととして”受け入れてしまう”。
慣れ親しんで、もはや自分にとって”あたりまえ”になってしまった、受け入れたときにちくりと嫌だったこと。森氏の諸エッセイを読むうちに、そうした小さな”嫌だなあ”を、軽やかに飛び越える氏の姿を見た。
それをごく自然に氏は問うのである。なぜそうするの?合理的な理由はある??
そう、”合理的”。私がなぜ”ど文系”を名乗るのか。それは”あなたは合理的に考えていない”という未来の糾弾(誰から?)を避けるため、自分がすきなことを好きなようにすることが、外形的には”合理的でない”などと悲しい評価を受けたりすることが多かったからだ。
だが、どうやらそうした”合理的”は森氏の”合理的”ではないようなのだ。
もっとよい”合理的”。本質を探り、そこから生まれる”合理的”。
もちろんすべてが自分にピッタリの考え方、というわけではない。だが、そこにある”なぜそう考えるか”という理由を、わかりやすく”理系的”に説明してもらうと、ぽろぽろぽろぽろと、凝り固まった眼の上のうろこたちが落ちだすのである。
で、なんだか心が軽くなる。森氏の著作を読んで、文系だ、理系だとあまり言わなくても、と思った。(しかし昔は9割9分は算数ができないことの言い訳のために言っていた)。
で、趣味。確かに自分も。
好きなことを好きなようにしかしていない。
美術鑑賞が好きなわけではない。
好きな絵を見たいだけだ。
読書が好きというよりは。
読みたいジャンルの本を読みたい。
当たり前だが、当たり前であることを忘れていたこと。
そういう気づきがあるから、森氏の本が売れている、ということなのだろう。