夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

坐禅。

禅マインド ビギナーズマインド (鈴木俊隆著)を購入した。

74ページから引く。

私たちの修行は、ある考えを得ることでもなく、なんら期待も、たとえ悟りへの期待も持つことなく、行わなければなりません。それは目的なしに座ることとは違います。ある考えを獲得しようとすることから解放された修行とは、般若心経(プラジュニャー・パーラミター・スートラ)にもとづいています。しかし、注意しないと、心経それ自体が、なにかの考えを与えてしまいます。

対価を求めること。

たとえば、人は”試験に合格するために学ぶ”。

成果を得るために物事を行うことは、日々の暮らしのなかで普通に行っているものだ。

だが、結果を求めるという気持ちが強いと、思う通りの結果が得られない、あるいは遠大な目標にたどりつくまでに、息切れし、挫折することがあるし、そうなってしまうことへの恐怖を心の意識しない底に抱えての営みとなることが多い。

これは、しんどい。

なので、例えば小さな目標、ステップを決めることなどが推奨されるわけだが、ここではそもそもなにかの対価として結果を求める、ということの含む、苦しさ、および功利性への嫌悪が問題であるように思う。

純粋な行為ではない、と人のこころは知っているのだろう。

ゾーンに入る、古くからの言い方では、”三昧境”ともいえるかもしれないが、行いそのものに没入し、結果を得ることから自由になる、ということ、”今”を意識し、”時間”や”将来”を思い結果を求めることがないこと、これが一番身近な幸せであり、そこを意識すれば、”今の連続”を幸福に”ただ満足して生きる”ことができるだろう。

鈴木師はそのことを言っている。

禅、修行、これを”悟るために課された課題”、”対価として悟りを得る手段”と考えること、ここを避けることが、まずは肝要であるようだ。

だが、では、修行が必要ではない、ということではない。

二元論に陥る

般若心教は「現象(フォーム)とは空(エンプティネス)である、空はそのまま現象である」といっています。しかし、こうした考え、ただこれだけの考えに執着してしまうと、二元論に陥ってしまいます。

そもそも一つであるこの世のすべては、多数、複数、二元である、と感じ理解しやすい、しがちなものでもあるようだ。

そうしておくほうが、”安心だ”。”そもそも生老病死すべてが空だ、ということかもしれないが、それでは生まれた理由がない。生きてゆく理由もない”ので、”二元論で理由があることにしておく”。

どうも人は、本当の心の奥底では、すべての人が分かっている気がしている。”二元論はしょせん方便だ”と。

だが、そのことを抑圧し、ないことにし、気づかないふりをする。

そのほうが”表面的には楽である”。

そのこととは、その事実とそのうち、は”そもそも生まれてきたことに意味はない”だ。

生まれてきたことには意味がないのか。

 

意味がない、という事実を見据えたときに、初めて意味とはなにか、そして、そのことを起点に考え、”ただ生きる”ことができる。

そこにこそ”今”があり、”三昧”や”ゾーン”があるのではないだろうか。

ここにあなたという現象「色(フォーム)」がある。こちらに空というものがある。そしてあなたは現象をつうじて「空」を認識しようとしているのだ、というふうに。そこで「現象とは空である、空はそのまま現象である」というだけでは二元論です。さいわいなことに、われわれの教えは、「色は色であり、空は空である」といっています。ここには二元論はありません。

人はすぐに”二元論に頼る”。

二元論はわかりやすい。

生まれて人は、(結果としての)食事が欲しければ、そのことを求めよ。と学ぶ。もちろん生まれてすぐはそうではないかもしれない。

しかし、そのうち、学ぶことなる。

結果を得るためには、することがある。

得たいがためには、代替行為が必要だ。

 

で、代替行為に、(過分な)意識が向く。

その行為自体が、”楽しくない”とき、楽しくなければ楽しくないほど、

”こんなにしんどいのだから確実に結果が得られなければ困る”になる。

”困る”?誰に対する異議申し立てなのか??

だれかが、”結果を与えてくれない可能性”に困っている。異議を申し立てている。意識の自然な働きとして。

 

これが”他責”の始まりだ。

だれの責なのか。

 

そして”他責”こそ不幸のはじまりなのだ。

よくある”他人との比較は不幸の始まり”という智慧

そこにも同じ”人が無意識に陥りがちな不幸の型、考え方の癖”がある。

 

乳幼児であれば”保護するもの”である。学校であれば学校の仕組みであり、教師の、であろう。

では、座禅のこの足の痛みは。”これだけ修行したのだから"。

 

それは、”仏”に対する他責であるのかもしれない。

”修行したんだ、悟らせろ!”

 

ああ、これはしんどい。

近くにいこうとして、最も遠くにいる。

 

座っている間、心を止めることが難しく、止めよう、止めようとしている自分がいるのがわかったら、その段階は、「現象とは空である、空はそのまま現象である」ことを認識しようとしている段階です。しかし、このような二次元的なやり方で坐禅をしていくうちにも、次第に自分と、坐禅のゴールとが一つになっていくでしょう。そしてなんの苦もなく座っているようになれば、心は止まったのです。これが「色は色であり、空は空である」である、という段階です。

なにかをしないように、と思う心は、”しないように”という語が入っているので、効果がある、と人は思ってしまうものだろう。

だが、なぜか、魅入られたように、”しないようにしている”行為に引き寄せられることはないだろうか。

勉強せねばならぬ、マンガを読むなどもってのほか。

そういうときに読むときのマンガの面白さ。魔力が降臨したような魅力のストーリー。学生時代、そらが白々と明けてゆくなかでの全巻読破。

この”やってしまった感”の甘美なること。

いささか残念な例になるが、皆さんもおおかれすくなかれ経験がおありではないだろうか。いや、自分は真面目だから、というかたもいるだろう。

だが、なにかの代償としての行為を開始するときの”そこはかとないストレス”。物事は始めるのに一番エネルギーがいるという、あれ、である。

そこ、にあるのが二元論、だ。

座るために座る。

座りたいから、でさえない。”ただ、座る”。

だが、そこに至るには”型”が必要だ。ある段階にあるわれわれの心を、そこから”ひっぺがす”仕組みとしての”型”。それがここでは”坐禅”という型になる。

座ることを、座ることとして、座る。

思うことを、思うこととして、思う。

心を止める、ということは、心の動きを止めることではありません。あなたの心が全身を浸している、ということなのです。心は呼吸に従います。そうした全身に満ちた広々とした心で、あなたは手に印相(ムードラ)を結びます。そうした広々とした、開け放たれた、満ちた心で、足の痛みにわずらわされることなく、座ります。これが、なんらの考えも得ることなしに座る、ということなのです。はじめは、こうした姿勢を窮屈と感じるかもしれません。しかし、そうした窮屈さにわずらわされないでいると、あなたは「色は色であり、空は空である」の意味がわかります。窮屈さの中で、自分の道を見つけること、それが修行の道です。

生とはなにか。意味はないのだが、その時点にいて、かつ貪欲に”今”に”三昧する”。

自分の人生が短いと知ること、一日一日、一瞬一瞬を楽しむこと、これが「色は色であり、空は空である」という人生です。ブッダがやってきます。あなたは歓迎します。

一瞬は永遠であり、永遠は一瞬である。

このことを考えたとき、”時”とは、かりそめの仮定であることに気づく。

時とは、永遠を切り取れると誤認している”こころの迷い=エゴ”による語のこと。

 

であれば、”時は無い”。

 

参照:

サンガ新書055

 

禅マインド ビギナーズ・マインド

禅マインド ビギナーズ・マインド

 

 

著者 鈴木俊隆

訳者 松永太郎

2012年7月1日第1刷発行