昨日は25日からの所属する版画工房のグループ展の為の額装の為に奔走。
これを書いているのは20日なので、この日記を公開する日は既に会期途中となる。
皆様もし可能であればぜひご来駕お願い致します。。
展示の為に額装するのは、展示ということを行うときではないとなかなか経験できないだろう。
絵のサイズに合わせて、額の大きさを決める。新しく買ってもいいが、手元不如意であれば過去額の再使用だ。
で”マットを切ってもらう作業が必要だ。これはすこし値段は張るが、最寄りの画材屋さんでやってもらった。神保町の文房堂さんだ。銅版画にも力を入れてくだっている楽しい画材屋さんである。
文房堂さんの額部門の営業時間は6時までである。昨日は右目が充血して、心配なので眼科にいったので、眼科と画材屋さんを行ったり来たりだ。なんとか両方間に合った。
そこから工房にいって、水彩色鉛筆で手彩色。私の版画はこのスタイルである。
でまあ、なんとかかんとか、工房に入品できた。よかった。こういうときは達成感がある。
昨日夜の体重は66.4kg、体脂肪10.1%。いろいろ歩き回って歩数13000歩くらいになったのがよかったかも。
しかし今朝は67.2kg、体脂肪13.2%と相当上がった。キムチ食べすぎたかな。
こうして体重は上がったが、まあ大盛ライスお代わりとかでないのがまだよかった。もも肉を皮から食べてはいるが、ジワリと落としていきたいと思っている。
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不平家は、折り合わぬのはいつも他人であり、環境であると信じ込んでいるが。環境と戦い環境に打勝つという言葉も殆ど理解されてはいない。
他責は地獄、ということを最近とみに思う。人に期待しても、自身で人を変えることは不可能なことである。ここがなぜだかわからないが、デフォルトで人間は”自分で人を変えることができる”と思ってしまっているような気がしている。
もちろん関係性により表面的に変えたように見えることはあるだろう。しかし”やらされ感”のあることは、その重圧が無くなったとたんもちろんもとに戻る、あるいはより強化して元以上の状況となる。
他責、である。やらされ感とほぼ同意の言葉。
他人に責任を負わせる思想になると、どこか心の一番奥で、”どうせ他人に期待しても無駄”という思いがある。ここで”やらせる”の意味は、本来他人がやる気がないことだ。
他人にやる気がある、ということは、つまりは他人は”自分事”としてある事象に取り組めることだ。契機は他人に言われて、ということでも、それがもともと自分事であったり、言われて自分事になればやることができる。
このあたりがずれの肝であろう。強制したつもりが、そうではなくて相手の自分事に最終的にFITする経験があると、人はなんでも強制して他責にしてしまう。
自己責任論、などはその典型である。自己責任を取る時の主語、というかやることの対象は、そもそも自分事でなければならない。外部に”これはオマエの自己責任やろ”などといわれて”?”となった時点で、自分事であるはずがない。
つまりは価値観の押しつけがあるだけだ。
自己責任論は、自分の精神世界の安寧の為だけに、勝手に自分で思うべきことだ。それを”偉そうに”他人に押し付けているのを見かけた時点で、私は”その人物は残念な奴である”認定をもれなくしている。
そのあたりを小林秀雄は述べている気がする。
文句を言わず、自ら環境にチャージしていけ。
そんな感じではないだろうか。
(小林秀雄が、飲むと厄介だったりする人ですが同時代人に畏怖され尊敬されていたのは、その思想の底に一本筋がずしんと通っていたからだと思います。そのあたりの感触は池田晶子さんも同じで、なので池田さんは小林に惹かれていらしたのだと思います)