修行というのは、師の背中を追いかけながら、無限消失点としての目的(武道の場合なら「天下無体」)をめざしてひたすら道を歩むことです。

ユダヤ教では、自身が生まれる前の罪を意識するように教えられるということを、同じく内田さんの書で知った。
ここで示される、”師のあとを無限に追い続ける自分、という形で、修行や道をセットする”というふるまいもまた、ユダヤ教の教えに通じると思う。
求め続ける自分、という形に半ば無意識に自分の姿勢をセットすることは、たぶんとてもいいのだろう。
どこかでたどり着いて、自己満足=停滞、に行くことがないのだから。
修行、により、精神と肉体を”自分史上最高”を常に追うことができるし、達成しようがしまいが、”人類史最上”を”ひそかに””胸に秘めて”追い求めることもできる。
別に人に開陳せずともよい。
逆に人にいうと”お前ごときがおこがましい”と思われないか、という、文字通りの邪念がもくもくと心に青雲のごとく??沸き起こることであろう。
これも昨日の”他責”と通じる境地、所詮他人の気持ちはわからない、ということなのだ。
であれば”魂の世話”をして”魂をほがらかに”せねばなるまい。
そう、”自らが犯したわけではない、生まれる前の罪”を償い続けることで、たまたまこの身体にたどり着いた自身が管理する部分だけの”魂”(集合的無意識の一部が、便宜的に一時身体に限定されて存在している状態)を、できるだけ磨き上げてよき状態にしようと絶え間なく思い続けること、これがいわゆるプラトン(ソクラテス)のいう”魂の世話”ではないのか、と今私は勝手に思っているのだ。
哲学史的には違うのかもしれないが。まあ、勝手に思うのはただである。
幸福学の前野教授の幸せを感じる4つの因子、ということを知ったので、備忘のために記しておく。
備忘といいながら前にも書いたかもしれない。備忘になっていないが(´;ω;`)何度も備忘を繰り返すこともまた、備忘が必要な残念なわが脳あるあるかもしれない(´;ω;`)(´;ω;`)
1.自己実現と成長(やってみよう因子):強み、主体性
2.つながりと感謝(ありがとう因子):利他、多様性
3.前向きと楽観(なんとかなる因子):チャレンジ精神
4.独立と自分らしさ(ありのままに因子):自分軸
昨日激しく糾弾した他責や自己責任論の究極の反語は、この”利他”であろう。
なんというか、くらくらするくらい違う立場だ。
基本、えらそうに自己責任論を吐いているのなら、利他を1ミリでも意識せんかい、と思うのだ。
偉そうに言っているが自分もできてはいないだろう。
だが、利他、こころから利他やなこの人、と思うような人は信用できる。
たまたま自分が管理するこの魂(なんどもすいません)、折角なのでできるだけ世話をせなあかんわな、ということで、この4つの因子を意識することは、結構いい手段なのではないだろうか。
(まあ、この因子もおしつけが入ったとたんにサイアクになるでしょう。自分がこの考え方が気に入るかどうか、で、気に入ったならやってみる、という流れが肝要ですよね)