今朝は体重測らず。。昨日は67キロ、朝食摂取後ながら13.6%となり心折れたかも。。
まあ、休みの日はチートデイということで。

昨晩はスーパーで750円の寿司を3割引きで。567円。
まあ、ここで街中華などを食べているとたちまち68キロに戻ってしまうところだ。
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私が小林秀雄の"新潮社版小林秀雄全作品”をちょこちょこ集めたり、文庫本や単行本を集めたりしているのは、間違いなく池田晶子さんの”新・考えるヒント”を読んだことがきっかけであろう。
これはとにかく素晴らしい本(まあ、池田さんの本で素晴らしくない本などありえないのだが)で、小林の”考えるヒント”の文と融合して池田さんの文章が堪能できる名作だ。
小林が文芸春秋の1959年(昭和34年)6月号(たぶん)に、「常識」を発表したのは、57歳の時であった。以後昭和39年62歳になるまで連載した連作エッセーのタイトルが「考えるヒント」であったのだ。
私はここでも何度か書いているのだが、とにかく高校生の時に初めて読んだ小林秀雄の文章がまったく読めず、意味がわからず、大変心折れたわけである。
それまで私は、国語だけはノー勉で(自らの中では)一番点が取れる科目、ということで、ひそかに自信をもっていた。
だが小林の文章に接すると、なんというのか端的に歯が立たない、読めない、意味がつかめない、という事態に陥ったわけである。
まあ、それまではいわゆる小説を、1日1-2冊読めるでー、的な部分がひそかな自信の根拠だったのだがなんというか全く文章が読めない、という経験はほとんどなかったのだ。
今考えると、いわゆる硬めの哲学系文章に慣れていなかったせいだろうが、小林の文章はガチガチの哲学系というわけではなく、人文系という印象があったせいで、これ系は読める、と思っていたのにー(´;ω;`)、といったところが心折れの原因であろう。
まあ、科学系の文章などは、そもそも事象や前提への理解ができていないので、読めなくても仕方なし、という発想であるが、それであれば余計に人文系はきちんと読めんとなア、と思っているわけだ。
先週なんとなく小林が水道橋の駅ホームから一升瓶を抱いたまま転落した、という事象の前後を調べていた。水道橋は今の部屋の最寄りの駅なので、小林の落下はこの駅やったんか、という親近感から調べだしたようだ。落下は9Mくらいで、小林落下の前の週の2人ほど同じく落下して(ホームは別だったようだが)亡くなっている、ということらしくて、その中で小林は気絶し肋骨にひびは入ったようだが特段の大けがは無く助かっている。
小林は、後日”おっかさんが助けてくれた”と述懐している。落下は昭和21年、小林44歳である。同年5月27日、母親精子没、66歳。亡くなったあとの飲酒落下だと思う。
飲んだのは神田の「セレネ」という居酒屋だったという。
小林は神田の猿楽町の生まれである。父親・母親は兵庫県出石の出身。父親小林豊造(1874年 - 1921年)は農家の次男から幼少期に出石藩士小林家の養子となり、兵庫県師範学校を経て、1899年 東京工業学校工業教員養成所金工科卒業。同校の教員となり、1903年に文部省の派遣留学生として1年間欧米の金属技術を視察し研究している(Wikipediaより)。
父親はこの経歴を見ると、非常に優秀な人だったのだろう。両親とも私と同じく兵庫県の出身、そして神田猿楽町といえば、わが現在の住まいのほぼ隣町ということで非常に親近感がわいてくる。そして猿楽町の最寄りのJR駅(当時は国鉄かな)は、水道橋駅であったのだ。当時は多分猿楽町に住んでいないだろうが、懐かしい生まれた界隈で楽しく飲酒して酔っ払いすぎた、ということだろう。
小林の飲酒癖(飲むといっしょに飲んでいる人をコテンパンに論破して泣かせる)は有名である。
小林は1902年生まれで、父親は46歳で1921年に亡くなっているので、秀雄19歳くらいだろうか。その後はずっと父親なしでの生活であろうから(まあ、小林は学生時代にいろいろあるわけだが)、母親と小林の関係も非常に緊密であったろう。
そのあたりをうかがわせるのが、中断したベリクソン論である「感想」に書かれた以下の文章である。
母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。(中略)仏に上げる蠟燭(ろうそく)を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷(おうぎがやつ)の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。
小林秀雄 「感想」
この文章に初めて接して以来、母親が死んだのちに蛍としての母に会った、と小林が書いていることが、妙に心に残っていた。
で、ベリクソンを論じるこの文章で、このことを書いた小林はどのような思いであったのか、と思ったわけだ。
「感想」を「新潮」で小林が連載し出したのは、昭和33年(1953年)、56歳の時であった。その後38年6月まで、5年余り連載するが、61歳であるこの時ソ連作家同盟の招きでソビエト旅行に出発、ヨーロッパを経て10月に帰国している。
当時の海外旅行とは、大変困難で、普通は海外には行けないものなのだろう。5か月という長期間であることも、一生で一度行けたらすごい、というようなものだったのであろう。
で、その旅行による中断がたぶん直接の契機だったのであろうが、結局「感想」は再開されることなく未完のまま中断され、その後小林は本作品を失敗として、全集への織り込みを固く禁じたという。
したがってリリカルともいえる母親への思いが心にのこる文章を含む未完作品が、通常の全集で読めない、という事態が続いたわけだ。だが、2002年から2005年にかけて刊行された「小林秀雄全作品」では、別巻としてこの「感想」も含まれていて、確か家に持っていたなあ、と思い出したわけである。
で、留守宅に帰って別巻2を引っ張り出してみたのだが、本をつかんで気になったのは、同巻には秀雄の最後の雑誌掲載で、絶筆となった文章が併載されていたことだ。
この絶筆は1981年、秀雄79歳の時、雑誌"文學界"に掲載開始されていた正宗白鳥論である。その最期の稿には小林がアニエラ・ヤッフェ編のユング自伝を読んで、その中でユングの言うフロイトとの決別を描く部分を読み、"フロイトが要求する「断固たる転身」に、進んで応ずるとはどういう事であるかを、まことに素直明瞭に語っていて、其処には、私をひどく驚かすものがあったからである。"と書かれている。
ユングは1907年のフロイトとの出会いのあと、2年後の決別のきっかけと結果を自伝の中で述べている。
ユングがフロイトの唯物論的偏向、性理論に固執する一面性から逃れたい、心理学一般を超えた神秘的現象の事実性如何といった問題について意見を交わしたいと思っていた矢先、フロイトと語り合う中、"まるで私の横隔膜が鉄で出来ていて、赤熱状態-照り輝く丸天井-になってくるようであった"という心理となった瞬間、右隣の本箱で爆音が起こったのだ。
ユングはフロイトに"まさに、これがいわゆる媒体による外在化現象の一例です"と述べると、フロイトは"全くの戯言だ"と叫んだと言う。
しかしユングが何がその確信を与えたのかわからぬまま"しばらくすると、もう一度あんな大きな音がすると予言して置きます"と述べるや否や再び同じ爆音が本箱の中で起きたのだと言う。
(ユング自伝 「思い出・夢・思想」Ⅴより)
"フロイトは、ただ呆気にとられて、私を見つめるばかりであった。"(同上)
その後、結果としてフロイトとの友情は失われ、"私の友人や知人は皆、いつの間にか立ち去って行った。私の著作は、無用なものと宣言された。つまり、私は神秘論者であるとして、それで事は落着したのである。"と書かれてユングのフロイトとの思い出は終わっている、と小林は書く。
更に小林は問題は何故ユングはこの"自伝"自体を最期の私設秘書であったアニエラ・ヤッフェの企て、と言って、自作として全集に入れる訳にはいかない、と言った意図に行き着くと言う。
同自伝の編者アニエル・ヤッフェの"はしがき"を読むと、同書編纂のきっかけは1956年夏のエラノス会議で伝記出版の希望が出された事だと言う。私設秘書であるヤッフェは、ユングが私的生活を公衆の前に晒すのを嫌っていることを知っていたが、ユングは悩んだ末に同意したと言う。
1957年春から、80歳を超えていたユング(81歳くらいか)に対し、週に一度、午後一杯をかけてユングに質問をして答えを書き留める形で同書はスタートしたのだと言う。
だがユングは自伝供述中も心は揺れに揺れたと言う。その書簡で述べられているのは"自分にとって、人生の全ての外的な面は偶発的なものと思われ、ただ内的な事だけが、実体性を持ち、決定的な価値をそなえているように思われたという事なのである。"という事であった。
そう言うことを引用しながら、小林自身の絶筆となった本稿の最後はヤッフェの"自伝"への引用で終わっている。
最後の部分を引用する。
"そんな書簡を読まされる始末となっては、ヤッフェも亦追い詰められて、ユングの「自伝」の解説を、「心の現実に常にまつわる解説し難い要素は謎や神秘のままにとどめ置くのが賢明"
最後の"賢明"の語の後には"」"が記されていない。
まさに絶筆、と言うべきだろう。
ユングが口述がメインであったとはいえ、一部自らも書き下ろしているこの「自伝」を、決して全集に入れないように、と言った理由はなんであろうか。
小林も絶筆の最後の部分で、ユングが自分自身の”心の現実”を開陳しつくすことに揺れ動いていた、というヤッフェの解説を引用しようとして終わっているのを見ても、まあ、そういうことだろうと思うわけではある。
精神科医という職業で多くの人と接し、その中から自身の理論を練り上げたユングであるが、先ほど小林が引いている部分をみても、いわゆる”神秘家”とみなされ、人に相手のされない、という苦い経験を何度もしていることが思い出される。
「自伝」でも「ヨブへの答え」に対して世間が行ったバッシングで心を痛めた、というような記載も見える。
幼少期より育まれたものがいろいろな経緯を経てユングはさまざまなことを成し遂げたわけだが、「自伝」ではどうしてもユング個人の精神ではなく外界で受けた数々の事柄をもある程度述懐せざるをえない点が、端的に”嫌だった”のだろうなあ、と個人的には考えている。
このあたり、未完で完成が困難だなあ、と思っていた「感想」を全集に入れることを拒んだ小林の気持ちともまた、なにか似た部分がある気がする。
(最後の文章で小林がユングを取り上げていることにも、なにか感じるものがありますね。。)





