夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

魔術と科学は同根から発生したとすれば、同じく宗教と哲学も同根である気がする。

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今朝の体重63.9kg、体脂肪10.1%。

昨日の朝は65キロあったと思う。総計5キロのパスタを購入、買いすぎて心配なのは余裕があると思うとたくさん食べてしまうということ。

本来は1週間で食べきる程度の買い物を毎週1回行くのが理想だが、パスタは500g100円(だいたい)のものが業務スーパーまで行かないとないので、日曜朝に自転車で往復40分(購入時間含む)で買いにいったのだ。

おなじく鶏むね肉2KGを1200円弱で購入した。1kg600円、100g60円であればまあ安いほうだろう。

まあ、玄米とプロテインとパスタと鶏むね肉は必須の食材なので、ある程度備蓄してみることにした。鶏むね肉はまいばすけっとでは1kg700円なのでやはり業務スーパーの方が安かった。

しかしまあ、1kg700円も悪くはない。

 


タイトルの件、現在科学と言われるものは過去は魔術がブラックボックスとして結果だけを提示していたものの一部であろう。錬金術から化学が生まれたように。だがいまや科学が証明できない現状(トンデモ)に見えるものが主に魔術の残された。残り物を見ていると、つまり魔術はマユツバだ、となってくる。しかし現在は科学の成果と成りあがっているものも、過去においてはむしろ噴飯ものであったこともある。地動説に対する天動説が一例であろう。

そういう意味では、宗教と哲学の関係は似てはいるがよりクリアーとは言えないだろう。
答えられない疑問の下に線を引くのが哲学だ、とするなら、そもそもある問題は哲学所属か、宗教所属か、というのはむしろそれを考える人間側の嗜好の問題となることが多い。「死」に対する態度がその典型であろう。

「死」はあくまで生きているうちには知ることができない。そう哲学が言えば、「死」とはこういうものだ、と「信じる」と言えば宗教だ。では哲学は宗教とは全然違うのではないか。そう思うのであるが、では例えば「哲学」でプラトンが描くソクラテスがそこに「輪廻転生」の可能性を言及すれば、哲学と宗教の境目はいきなり曖昧になる。

それはそれを言う人が、いうことごとに「これは宗教に関する話だ」とか「これは哲学だな」と心の中で仕分けしているなら格別、通常はそれほどクリアーに自身も分けて考えているわけではない、ということも一つの理由だろう。

だが、もしその心の底に「これは本当はわからない、という風に心の声がつぶやくのだが、それでは不安なので、安心を得る為に「そういうことだと信じよう」」と思う心があれば、それは宗教に近づくだろう。

だがいわゆる「宗教」といわれるカテゴリーには、今では「哲学」や「心理学」に属するような項目も含んでいる。現代以前は、今までに人類が試行錯誤して得てきた仮定も含む知のアーカイブとして、宗教が機能していたからだ。知を追求し続けることを望むものも、追及の方便として、あるいはよすがとして「宗教団体」にいわば「就職」するものもあったであろう。

魔術から科学が生まれたように、宗教から「学問」、主に人文系の項目が生まれてきたのだろう。なので、宗教の「信じなければいけない、異端だ」というもの以外の余裕の中にある今でいう「真理への追求(人文系)」の部分に、今心惹かれている。

(一方で、「信じなければいけない」から生まれた芸術、というものにも興味があります。仏師や宗教画の作成者は、宗教人であるケースはまれであったでしょうから。勿論「教徒」ということにはなっていたと思いますが。なので私も宗教画や宗教スタチューをことさら”宗教”を通して見なくてもいい、と思っています。みうらじゅんさんの”見仏”などもそうですよね)