夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

この世は方便、考え方か。

この世とは流動的であり、何一つ定点たるものはない、

ということが唯一の定点であろうか。

 


なにもない、ということがあるいは「神」であろうか。

 


否定こそが真実に到達する。否定にしか、真実は宿らない。

 


真実を固定されたものとしていた「神」は失われ、固定できない、とする「偽の神」が実は「真の神」であることをあらわにする。

 


明治の宗教哲学者・清澤満之は、「宗教とは主観的事実だ」とのべている。神仏は限界状況におかれた私の主観において存在する。科学的証明を必要とする客観的存在なのではない。

親鸞 (ちくま新書)阿満 利麿

孫引きだが、上記はつまり神を外部から輸入しよう、悟ろうとする気持ちの誤りを指摘しているように思う。

一人一人に真実があり、神があり、真の「私」がある。

 


自分さがし? それもいい。

私などはない? それもいい。

時間もない?過去も未来もない?? そうだねえ。

 


なにもない不安定さの上にたって、生きてゆくしか、ないのだろう。

(宗教者、と呼ばれる人たちが肉薄しようとする姿、その姿に惹かれますね)