日没時間が次第に遅くなってきている。つまり、日が長くなってきている。
欧州の冬は長く暗い、というイメージがある。少ない経験であるが、確かに英国の冬は寒さに追い込まれる感じがした。
日の出、日の入りにはいつ見ても心奪われる。空が絶え間なく変化するのがいい。日中はそれほど変化を感じないので。 光、に時間があるのだろうか。もちろん発せられ、進むものだ。変化、ではある。だがそれ以外に感じるこの暖かさは、なんんだろうか。われわれは光によって発生した生命、だからであろうか。
時間とは、時とはなんだろうか。
鈴木大拙「神秘主義」に引かれていた、聖アウグスチヌスの「告白」、11章14節を孫引きする。(段落等は一部変えています)
では時とは何か?
もし誰も私に訊ねなければ、私はそれを知っている。
でももし質問者に説明しようとすると、私は知ってはいない。
しかし、私は次のことは自信をもって断言できる。すなわち、もし何も過ぎ去ることがなければ、過ぎ去った時などはないことになろう。
そしてもし、何ものもやって来ないならば、未来などないことになろう。 そしてもし、今何も存在しないならば、現在もないということになろう。
では、過去も、もはやなく、未来もまだ来ていないなら、過去と未来のこれら二つの時はそういうことになるのか?
現在という時は、もしそれが常に今あるがままに留まり、決して過去に移行することがないならば、全くそれは時ではなく、永遠であろう。
もし現在という時が時ではないのに、ひとえに過去に移行するからというだけで、存在を獲得するならば、どうしてわれわれは現在もあるということができるであろうか?
もしそうならば、現在がある理由は、現在が現在でなくなるからだということになろう。
換言すれば、現在が存在しなくなるという差し迫った状態によることなしに、われわれは時が存在するなどということをまともに言うことはできないのである。
時、という概念は、人間が物心つくとすぐに、意識する概念かもしれない。
時が過ぎる。時が経過する。 人間といっしょに生活する犬や猫には、人間としては同じく時を過ごしている、という感覚があるのだろうが、どうやら時間という認識はないようだ。
記憶は、ある。だが、記憶とは”過去の出来事”という形で人間は思うのだろうが、多分犬や猫にはただ”記憶”、覚えていることだけを、指しているようだ。
時、を考えることは、消滅、死、永遠を考えることにつながる。
龍樹
まず、すでに去ったものは、去らない。未だ去らないものも、去らない。 さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉も去らない。
→「行為から切り離された主体それ自体の否定」
マイスター・エックハルト(1260頃ー1328頃) 神聖ローマ帝国
汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。 神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう。
さまざまな叡智が、時を、神を、自分を、考えている。
(子供の時、死という言葉さえ忌み嫌っていました。今もいくぶんそうですが、すこしずつ変わってきている感じもあります。すこしずつ、ですが。)