夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

学問と芸術。

学問と芸術は、同系列だったのか!

 

森博嗣さんの”つんつんブラザーズ”を読んでいる。見開き2ページにテーマを絞って記載されている。字数が限定される、という意味では、新聞のコラムのような感触である。

 

その中で、余裕がないと学問も芸術も行こなえない、という真実が書かれていた。まさにその通りである。

 

学問も芸術も、本質的には無駄なことである。無駄なことが大手を振ってできることが文化である。国に財政的に余裕がなければ、これを行えない、それはいままでかりそめにもそうしたことが出来てきた時代を過ごした身にはとても残念なことだ。

 

またまた思いだすのは、チャップリンの”サムマネー”。”武士は食わねど高楊枝”ということばがやせ我慢、できないことの揶揄となりはてたのと反対に、この世のかっこをつけない真実に肉迫する言葉として理解しているのだが、

余裕がない、今の日本で、文学部など廃部にしろ、役に立たない学問は退場だ、という考えが金の回らない政府から出るのは、或る意味しかたがないのだ。

 

だがまて、人は宗教を求めるがごとく、芸術や学問を求めるのだ。森博嗣氏も書かれている。

しかし、人は必ずこの「文化」を復興するだろう。神がいなくなった現代において、それは神殿のような社会の、人々のシンボルであるからだ。

つんつんブラザーズ 森博嗣 P.163

 

大学でできなくても、人は神を求める。つまりは学問を、芸術を、文化を。

 

そんな高尚なものには用はございません、という向きにも、なにかの娯楽は必要だろう。食事がおいしい。TVを1分見た。マンガがオモロイ。

これはすべて、”文化”である。文化に高低はない。見る人間の魂に、高低があるだけだ(劇薬がある、ということ。だが劇薬も”薬”なのだ)。

 

やらされることの、根底には比較がひそんでいる。だからやりたくない。

 

だが、やらされることで、最低限の生存のための、今のこの世でのノウハウを得ることができる。字を読む。日本語をしゃべる。ひとによってそれ以上欲しい技術はいろいろだろう。

 

それを理解したとき、人は学問をはじめて”自分のために”始める。算数?嫌いだが、最低限の知識はやはり必要だ。

 

それが”義務教育”なのだろう。それを超えた部分、いままでにまなんだことの延長戦上であるが、もう生きるための方便という次元を超えた
”学問”。それは文化であり、政府が言う”役に立たない学問”である。

 

算数がとにかく大嫌いであった私だが、例えば大学の理学部にすすむような”算数好き”な人々にとって、算数の世界は、哲学であり、神学であり、芸術でもある、ということを最近やっと感じてきた。

 

知的な、興奮をともなう、或る意味”趣味の”世界であるのだ。それが役に立つ技術に寄与することは勿論多い。だが、”数学好き”な人々はそのために”学問をしている”のではなかったのだ。いままで、数学が嫌いすぎて、(しつこい)わからなかったが。

 

私は、文化が好きだ。例えば独学。例えば、つたない文章を発信すること。自分にとってそれは”文化”だ。

金がなくても、人は必要な文化をなんとかして自分で得ようとする。それは享受と発信、両方のスタイルがあるのだが。

 

しかし、学府が尊敬の上ですきなように自由に存在でき、例えば美術館では入場料は不要、写真撮影、模写も自由(むしろ推奨され、未来の芸術家として激励される)という文化の、なんと豊穣なことだろうか。

 

そんな日本であったのなら、と夢見ている。

 

(まあ、となりの芝生は青くみえる、という面もあるのでしょうが・・・。)