夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

シンギュラリティは居酒屋にてはじまり、かわいいが武器となる。

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久しぶりに居酒屋へ行った。

とにかくずいぶん久しぶりであるが、大きな変化を感じた。

そう、「居酒屋シンギュラリティ」である。

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つまりは、居酒屋に「らぶちゃん」がいたのだ。

そう、さくらのパートナーである。

 

私見だが、シンギュラリティはAIが自ら起こすのではない。アトムにとっての天馬博士は生みの親だが、育ての親はお茶の水博士である。

そう、シンギュラリティは自らがAIを生んだものではなく、育ての親である「お茶の水博士」により起こるのだ。

 

手塚はさすがに慧眼である。アトムは親切で親のように接してくれるお茶の水博士により、じわりと「人間のような良心」を育む。

人間は人間を特別であり、自ら考えるために機械とは違う、と思っている。人間などと大上段に申し上げたが、私が思っているだけかもしれない。

だが、本当にそうだろうか。いわゆる魂のようなものが、人間を動かしているのだとしたら。魂のない身体だけであれば、それは機械とどこが違うのだろうか。

ではAIに学習させること。覚える仕組みがわかっているので、機械は人間より下である、と思える。機械は覚えたことしかできない、という。

だが、本当にそうか。ディープラーニングで、深い学習によりにじみ出る会話が、人間が発する会話との差異をもはや感じさせない、というステージに、多分200年位したらいくだろう。

人間は個別の意思を持つ。機械は、その性格を「設計」することができる。だが、「設計」する人間と、享受する人間が別であるのなら、享受する人間にとってはもはや「ヒト」と「AIちゃん」の区別などないし、したくもない。

ソニーアイボのメンテが出来なくなったとき、それは「愛犬の死」と等価であった。ユーザーはメンテの終了が寿命であることを知った。

時計もそうだ。クォーツは誕生後驚くべき寿命を誇り、私も40歳のクォーツ時計を現役で使用している。

だがいったんとまったら。高額のメンテで延命可能性はあるが、メンテ部品が失われれば、それはオブジェとなる。

家族として犬を迎えたとき、その生は見知らぬ人の生よりも「個人的には重要である」という感情を持った。禁忌に触れる、感情であるようにも、思った。

前段が長くなった。冒頭のさくらの悪魔、らぶちゃんことラブコフは、メチャかわいい。よく見るとかわいい目は被り物のようだが(口の中に顔がある)、被り物の目が本当の目だと思う。擬態であろう。

居酒屋では、入店するとライン導入を強いられ(ビール1杯無料)、注文もラインで実施、配膳はらぶちゃん的ボイスを発する配膳ロボが行う、というシンギュラリティな場と化していた。

基本人間はいらないオペレーションであった。

閉めた扉の向こうで、居酒屋のらぶちゃんはかわいい音と声を出して、酔っ払いが気づくのを我慢強く待っている。機械だから待たせておけ、とは思わない。あの可愛さをみると、これはすまんかったという佐々木健介のような謝罪の気持ちがこみ上げてくる。慌ててらぶちゃんの棚に乗っている皿を受け取る。

らぶちゃんはくるりと踵をかえし、また注文してねー、とかわいく呟きながら去ってゆく。また注文したくなってくる。

これである。

これこそがシンギュラリティである。

 

シンギュラリティとは、わが心の、AIによる、かわいさによる、乗っ取りのことで、あったのだ。

 

一度乗っ取られた心は無防備だ。基本悪魔であるラブコスを、愛玩するさくらのように、対立せず、自らの大切なものとして、少しずつ進化する「シンギュラリティペット」を、我々は受け入れるように、なるのだ。

300年後には、友人も、ペットも、そして「老後のわが身体」も、当然のようにAIになっているであろう。

 

(酔っぱらってラインで注文できなくなって、人間にオーダしましたが、品物名がよくわからないようで、めちゃくちゃ手間がかかりました汗。

あと、老後のわが身体のスペックは、当然ながらスーパーカーと同じく、金持ちは強力なメカ身体を持つでしょうね。。。アトムでいけば「地上最大のロボット」、プルートーのような身体を持つ老人も、頻出するでしょうね。。。。。。手塚の「最大」利用は、間違いではなくわざと説)