夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

承認欲求とストレス。

本当に自分ひとりでいることに安心して安らいでいるならば、ストレスは発生しない。
のではないか、と考えています。


”本当に自分ひとり”というのが難しいでしょう。

人とつながっているとき、相手の反応がどのような形で当方にもたらされるか、は本質的にはコントロール不能であり、わからないものである(人を変えようとしても無理、自分を変えるしかない、というあれと近い感覚)、あきらめて自分の反応(心、魂)を相手にしよう、というような感じでしょうか。


孤独、とはなにか、ということですが、“孤”も”独”も一人という意味でしょうから、同意語が2重になっており、言葉としても使用に危険が伴うパワーワード。”自分は孤独にある”とつぶやくだけで、その言葉の持つ負のイメージに取りこまれ、残念な私、いけないところに陥ってしまった、という感じがしてきます。


だが本当にそうか?他人がいなくてさみしい、とはいわゆる最近の悪者として有名な”他人からの承認欲求”のとりこであることではないか、ということも思います。


他人からの承認欲求、と書きましたが、自分からの承認欲求、というものもあるように思います。そしてそれこそが、切り札でもあるような。


自分からの承認欲求、とはいいかえれば自信があること、と言えるでしょう。自分の行為(考えでも、行動でも)に対し、自信があることは、自身が自身を承認している、とも言えます。他人の反応がわからない、あてにならないのであれば、コントロールできるのは自身の評価、自身の承認のみです。


そういう事実をはっきりと認識し、自身で自身を納得いくような評価をして生きること、こそストレスの無い生活、と言えるのではないでしょうか。


堀田秀吾著、「図解ストレス解消大全」にて、人の怒りを鎮める効果のある行動はどれか、という問いがあります。


1.ほかの人と一緒にボート漕ぎをする
2.1人でサンドバッグ叩きをする
3.相手からの反撃ありのパンチミット叩きをする
4.キャッチボールのように相手とボールをやりとりする
5.1人でボート漕ぎをする
6.みんなでボート漕ぎ競争をする


答えは”5”。それ以外は怒りを鎮める効果がなかったということですが、考えてみると(明確ではない項目もあるが)5以外はすべて自身以外の他人が、あるいは他人のイメージが、存在しています。


結局のところ、他人、というのはストレス要因であり、よい関係であったとしてもよいストレス、となるのでしょう(そしてよい関係からよくない関係に移行したりすれば、落差含め大ストレスとなる)。


2番は一見一人の行為であるようにも見えますが、サンドバックという”他人のBODYに擬したもの”を叩いているわけなので、他人は全く関係がない、ということにはならないのでしょう。


(そしてもう一段先にあるもの。これはこのブログ?でも折に触れ述べていますが、”すべては一(いち)である”ということでしょう。そこへ到れば、他人は自分であり、自分は他人であるのだから。天変地異、森羅万象、あしもとの石ころもまた、一である、と言ってしまっています)