夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

中心とは。

中心とは。


中学2年生の時、J・R・R・トールキンの“指輪物語”を読みだした。


評論社版、瀬田貞二訳の文庫であった。


読み始めたのは、神戸大学病院の待合室、いや、特に大きな病気ではなかった。あしに”いぼ”ができたので、冷凍して除去しよう、ということになり、母親と共に赴いたのだ。


いやあ、でも不安であった。それまでは近所のクリニックしか知らない。大学病院、というとそれだけでビビッてしまう。そしてまた、冷凍して除去とは!凍死、壊死、といった語が頭をよぎる。おびえる自身の気持ちを感じ、そこでかの有名な物語の読み始め、という経験をぶつけて緩和しよう、そのような思いがあったように思う(*)。


足は痛かった。いまだひきつれたような跡が、残っている。そして、物語は壮大で壮麗でもあった。長い物語を、それ以来愛読した。


中つ国、という言葉があった。それまでに見たことがない言葉。映画等では英語そのままで呼ばれているだろう。なんとなく、”世界の中心の国”ということを示そうとする翻訳だと感じた。”つ”の語の使い方の例を、知ったという面もある。すこし古い、語法だろう。


国が自らの国名を称して、世界に”ここは世界の真ん中だ”と宣言するこてゃ例がある。そう、中国だ。ここでいう漢語の”中”は、かの国が世界の中心である、という宣言をしていると理解している。もちろん国名であるのだ。漢字圏である日本では”中国”と読めばそういう意味も伝わってくる。英語で”CHINA”と聞く人々には、そういう情報は入ってはこない。


日本、もそうだ。太陽が上がる国。これまた高らかに自らの国名を宣言していることになる。JAPAN、ではつたわらないのも、中国の場合と同じことだ。


つまりは、同じことを違うことばで示すことによる差異の発生が、発生している。中国をCHINAとして知る人々(世界の大部分)。韓語圏の人々とは明らかに認識の差異が出る。日本もそう。日の出ずる国、という印象はJAPAN,という語のみ接する英語圏では多くはないであろう。そして”中つ国”と”MIDDLE EARYH”。原典では国=Earth、なのである。国、という語がほかの国を意識させるのとは裏腹に、英語話者でない私が”EARTH"と聞けばそれは唯一無二感がある。自国を高らかに世界の中心と宣言している感がある(個人的感想です)。


同じものを見ていて、違うものが見えている、ということはよくあるのだ、ということが、このあたりからも感じられる。


指輪物語の、ハイ・ファンタジー感は、衝撃的でしたね。緻密に描かれる、別世界。)


(*)このように自己のおびえる心(=ストレス)になにか反対の効果を持つ事柄に紐付けて対応しようとする心の働きは、”イフゼン・プランニング”と呼ばれる手法と似た風味があるかもしれない。


「もしストレスが溜まってカロリーの高い甘いものを食べたい!(if)」と気持ちが傾いたら、「その場でスクワットを10回しないといけない(then)」と決める。(中略)抗いたい誘惑に直面したときは、クールダウンさせるための台本をあらかじめ用意する──それが「イフゼン・プランニング」です。


『図解ストレス解消大全』

 

 

堀田秀吾著 より。

 

新版 指輪物語〈1〉旅の仲間 上1 (評論社文庫)