夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

天使。

昨晩の夕食前体重64.4kg、体脂肪率9.8%、今朝朝食前63.9kg、10.2%でした。

天使はいつどのようにしてつくられたのか、実はこれについては、神による六日間の天地創造が語られる『創世記』にもはっきりとは記されてはいない。これを受けてたとえばアウグスティヌスは、『神の国』(11:9)において、天使をほぼ光と等しいものとみなし、「神が「光あれ」と語られて、光がつくられたとき、その光において、天使たちの創造が解せられるのが正しいなら、天使たちが神の永遠の光を分有するものとしてつくられたにちがいない」(服部英次郎訳)、と述べられている。
岡田温司 天使とはなにか P.20

神や天使、というものを考えることは、この世界が始まった一番初めを考えるのと似ている。

どこをどう考えても、今の私には”無”というものがうまく考えられない。虚無ではない、無、である。虚無、といえばなにか虚しさの気持ちがその中を漂っていそうな感じだが、たとえ虚しさであっても、それはなにかの存在だ。精神的な、実体のないものかもしれないのだが。

無があるのか。無いところにどうして何かが生まれるのか。

どこか別の世界から、穴があいてなにかが飛び込んできたのか。仮にそうであったとしても、別の世界も含めて”一”のはずだ。別の世界があるのなら、世界は既に始まっているのだ。

とにかくなにもわからないし、わかることがあるとは思えない。そこでなかば「お約束」として、「ヤケクソ」で、神、というものを語りだしたのではないだろうか。

そこでは本質的には、神が存在するかどうか、という議論はありえないのではないだろうか。どう考えても無と有を飛び越える理由は思いつかない。思いつかないそのことをつなぐこと、それをしかたなく「神」と言ったのではないだろうか。

創世神話では、海はもうあったりする。土地や太陽は、もうあったりする。これは創世、ではなく、人創世、の物語となるのだろう。

時がなく、すべてが「一」である。そう考えることは、もしかすると機構としての「神」の語に近づくかもしれない。そうでないかもしれない。

天使は、だから安心して「出現」できる。機構としての「神」がまずは「光」をあるようにしてくれたあとであるから。自らが光が分有され、いつでも戻る存在であるから(仮説)。

出現するいの一番のものとして、「光」は最適だ。スタートはそれだろう。それが存在して、初めて闇は、闇となる。男がいて初めて女があるように、あるいはその逆。

それまでは、時がなく、存在のないものとして、闇が「無」という名前であったのだろう。それは「在る」という語が、馴染まない在り方なのかもしれない。

無、とは無、として、なにもない状態(気体もない)でただあった、ありつづける、あったかもしれない、というような感じで、「居た」のであろう。

無に、意識があるとしたら、擬人化するとしたら、なにをしゃべるのだろうか。

多分、私が思うに、

「退屈でしかたがない」

 

ではないだろうか。

(最近なぜか「天使」を描きたくなります。なんでですかね。。。)