夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

怒りと妬み。

池田晶子さんの文章がなぜにこれほど好きなのかというと、

 

例えばこの文章、

誰もが同じようにいい目に会って然る「べきだ」。でもそれは無理だ。才能と努力は、皆違うのだもの。最初にそれを認めない限り、やがて人は、才能や努力それ自体をも妬むようになるだろう。才能も努力もなしに。 

 睥睨するヘーゲル P.69 池田晶子

 

官僚が接待を受ける=けしからん=羨ましい→自分も受けたいものだ。

 

そう思う性根は僕の中にある。あるし、そのことはあまり良いものでないし、気分もよくない。だが、ある。

 

そして、池田さんに指摘いただかないと、わからない場合がある。

 

ポリティカル・コレクトネス的にはそうだよな

 

 

などと思う自分もいる。しかしその思いの苗床は果たして真の”コレクトネス”なのか。

 

妬み、であるのではないか。

 

人生は、各人勝手に生きるものだし、またそうするよりほかにないものなのだが、だからこそ私は、絶対に変わらないもの、誰が考えても必ずやそうであるもの、を考えたくて考えていた精神たちが記し残したもの「哲学」、その清潔な普遍性を凡庸な人生論と一緒くたにさせたくないと思う。

P.63 睥睨するヘーゲル 池田晶子

 

論壇誌”正論”に連載を持たれた池田さんだが、どうにも”やはり”そぐわないと連載をやめることにされる。

 

同単行本には、なぜに池田さんが連載をやめようとなさったのかが記された”最終回予定原稿”なるものが掲載されている。

 

ああ、やはり掲載はされなかったのだなあ。

 

これを掲載する、できる度量の雑誌であれば、これは一読の価値があるかもしれないぞ。

 

1995年11月号で終わった連載には、別の原稿が掲載された。引用した文章はそこに含まれているものだ。

だいぶん前の出来事かもしれないが、これは今起こっていることだ。

 

池田さんが、”あ、わかっちゃった”ののち、後は静かに暮らせばよい、とお考えになったのち、”行って還って”こられたのは、”詮じ詰めればたんなるきれい好きなのだが、見ちゃいられないという愛のような義務でもある。”(同P.61)。

 

愛のような義務。

 

要は親切なのである。愛なのである。

 

行ってしまって還らないのが多くであるなか、”還って“来た人たちが“四聖”であると看破され、そのことを伝えるうちに、多くの若者が同じく気づく。”あ、わたしもしっています”。

 

故郷の巫女たる池田さんに、安堵してそう告げる。池田さんはひどく喜ぶ。そして鼓舞する。

 

”そのまま生きていけばいいのですが、できればなにかをこの世につたえたらどうですか”

 

宗教のなんたるかを看破した池田さんは、このあたりででたぶん危惧されたのだろう。あぶない、教祖に祭り上げられかねない、と。そしておっしゃる。決して教祖にならないことが私の矜持である、と。

 

同志として、同じ魂をもつものとして、同じ魂として、宣言する。巫女の祝詞である。

 

 

池田晶子さんの文章がなぜにこれほど好きなのか、という自分への提題であった。

 

このあたりが、たぶん、、その理由であると、

 

思っている。

 

 

睥睨するヘーゲル

睥睨するヘーゲル

 

 

 

 

 

 

 

 

版画展に行った。

上野の東京都美術館で開催中の第87回日本版画協会版画展に行った。

 

美術館に行くときは基本やはり企画展が中心で、有名画家のメイン絵画を前に、

ああ、これがあの有名な。。

 

と仰ぎ見るのも嫌いではない。

 

私は見るものは主にマンガから来ているので、抽象や色彩の面白さもいいが、やはり具象に惹かれる。

 

これは個々の人間の癖(へき)や由来から来るものであろうから、

”好きなものは好き”でいいのだろうと思っている。

 

こうした気持ちになるのにはなかなか時間がかかった。

 

よく聞くのは、”美術がわかる、わからない”だ。

 

あの言葉は好きではない。

 

わからなければならないものなのか?美は??

 

 

伝わるものがあり、それが好きなのかどうかで判断する。

 

好きなものを見て感じる。別にお勉強ではない。

 

 

ひとり造る側に居るときは、特にその思いであった。

 

 

だが、やはりというか、当たり前といおうか、作る側の皆さんの末席に加えていただくと、

そんなことはあまり気にならなくなった。

 

みなさん、好きなものを作っている。好きなものを、見ている。

 

 

人の目を気にして作られたものは、なんらかの腐臭を帯びる。

腐臭、が言い過ぎであれば、”媚び”だろうか。

 

これを感じると、萎える。

 

生活の為、超絶技法で描かれ量産されたすばらしい風景画。

 

いや、デコレーションにはいいのだろう。

 

好きな人が購入すればいい。

 

だがこれは、見栄の為壁の本棚に収められた世界名作全集と同じである。

 

そして、作っている人も多分、あまりうれしくはないだろう。

 

ただ、日々のよすがであれば、それはよい。

だが、伝わって、くる。

 

 

版画展は公募展であるので、多数の描き手を絵の後ろに感じる。

 

美、は根源的には唯一の存在であろうが、それが描き手を通じて此の世に瞬間現れる。

 

そこに描き手の気持ちや癖や思いやなにやらが結果的にフレーバーとなってふりかけられ、

 

それが個々の絵となって現出する。

 

描き手は、美を現出させるための、通路である。

 

それはいわば、池田晶子さんが真実を告げる通路として、”哲学の巫女”を名乗られたのと同じ構図だ。

 

”美の祭司”みたいなものだろうか。

 

 

 

その根底には”美”がある。

 

美、とはただ美しい、だけではないだろう。

 

根源的なもの。普遍に在るもの。永遠に連なるもの。

 

 

”真善美”の一角を担うもの。

 

美醜、はない。その差はない。

 

 

美しさと醜さの差異はない。境界はない。

 

 

そう思えば、全ての作品はとても面白い。

 

 

そのなかを”流し”て、

 

多くの作品を横切りながら、

 

 

みずからの触覚に触れてくるものの前で

 

立ち止まる。

 

 

 

それは永遠である美に、永遠に接している時間でもある。

考える狂気。

しかし、この、世の中には自分にはわからないことがある、ということをわかるだけでも、実は十分なのだ。自分にはわからないことがあるということさえわかっていない人は、決して進歩しない。それ以上考えることがないからである。 

 P.105 睥睨するヘーゲル 池田晶子

 

わからないことがある、と思うことは、普通は不安である。

 

だから、そこまで普通は考えないように、知らぬ間に自己規制している。

 

そこから、ふらふらとさまよい出でること、それを池田さんは進歩の条件とおっしゃる。

 

これは事実だろう。

 

”考えれば”わかりそうで、実は偉大な、おそろしい、おおきな、

 

一歩なのだろう。それを池田さんは誘う。

 

生きるのなら、考えるべき、と。

 

 

いや、義務ではありません。

 

でも

 

でもたぶん、

 

考えたほうが、真理に近づく。

 

真善美に通ずる。

 

 

 

近づいて、通じたら、どうなるわけでも実はなく、

 

ただ

 

やすらぐだけなのかもしれませんが。

 

睥睨するヘーゲル

睥睨するヘーゲル

 

 

 

 

カルトとグノーシス。

 

 

 

グノーシスのことを初めて意識したのは、ヘルマン・ヘッセの”デミアン”を読んだ時であった。

 

 

デミアンはヘッセ自身を彷彿させるこの物語の話者、シンクレールに酒場でこう語る。

 そしてーいつか読んだことがあるがー放蕩者の生活は神秘主義者になる最上の準備の一つなんだ。聖アウグスティヌスのように予言者になるのは、いつもそういう連中だ。聖アウグスティヌスもかつては享楽児で道楽ものだった」

 P.115 ヘルマン・ヘッセ 「デミアン」 新潮文庫 高橋健二

 

学生時代の推薦図書としてではなく、すこし時間がたってから読んだ記憶があるが、こうして書き写してみると、僕は”神秘主義者”という語が通常意味していることについて、理解していなかったことに気づいた。予言者、もそうだ。これらの語は、直接に神、あるいは全とのつながりやそれへの希求、あるいは帰属を示す語であったのだ。

 

不可思議な少年、デミアンとの、シンクレールのつかずはなれずの関係が続く。ある日ハイタカの絵をデミアンに送ったシンクレールは、教科書に挟まれたデミアンからのメッセージに接する。

 

そこにはこう書いてあった。

 

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」 

 P.121 同上

 

そう、グノーシスで言われる”アブラクサス”である。

 

生まれざる父から諸存在、天使たちが流出する。出てくるのはまず六つの霊的な諸力、「心」(ヌース)もしくはキリスト、「言葉」(ロゴス)、「思慮」(フロネーシス)、「知恵」(ソフィア)、そして「力」(デュナミス )であり、これによって本来のプレーローマが構成される。次に最後の二者から、連続的な下降線を辿りつつ、三百六十五の天使が生み出される。彼らはそれぞれ、上位のそれに模して造られた自らの天を所有している。この三百六十五の天球は世界年ないしアイオーンの空間的表現形態であるが、同時に神と造物主の間の隔たりを象徴している。というのは、この世界と人間を創造するのは最下位のクラスに属する天使たちだからである。その首領がユダヤの神であるが、名を「アブラサクス」(もしくは「アブラクサス」)とも呼ばれていたらしい。これは天の総数である三百六十五を文字化した名前であるが、元来は、四つの子音で書き表されるユダヤの神名ヤハウェ(テトラグラム)の謎めいた言い換えであったと考えられる(「アルバ」/「アブラ」=ヘブライ語で「四」)。

 P.343 クルト・ルドルフ 「グノーシス

 

この教説は、ハドリアヌスアントニヌス・ピウスの治世(117-161)、アレキサンドロスで活動したバシリデース(ギリシア名バシレイデース)によるものである。キリスト教グノーシスを自覚的に奉じ、キリスト教神学者であろうと努めた最初の重要人物であるという。ヘーゲル哲学史講義において彼を「最も優れたグノーシス主義者」と呼んだという(同書P.340より)。

 

そのときデミアンは、われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない、と言った。-さてアプラクサスは、神でも悪魔でもある神であった。 

 P.123 「デミアン」 ヘルマン・ヘッセ

 

デミアン」の中で、主人公のシンクレールは、デミアンとその母、エヴァ夫人に出あう。デミアン、とはもちろん”悪霊に取り憑かれた者”という意味から来ていると作者は言う。そしてエヴァ。この名もまた象徴的である。親子であるというが、一体であるようでもあり、全てを知ったもののようでもある。大戦を予知する夢を見るデミアンはまた、同じく大戦の夢を描いたユングのようでもある。

 

グノーシスの思想は非二元的であるがために迫害されたと考えている。

 

神が自らの中にある、と見る思想は、同じ神を自らとはあくまで別であるとみなす”同じ神の徒”から認められることはないだろう。異教的である、という評価はある意味悲鳴であるようにも思える。

 

カルト、という言葉がある。グノーシスを迫害する立場からは、グノーシスはカルトであろう。みずからと相いれないものを糾弾し殲滅するための理由として”カルト”の語は使われる。だが、その思想が真摯である場合、殲滅すべき汚らわしいものとしてのカルトで本当にあるのか、という疑念が起きる。

 

自らに都合がわるいものを排除したいのはわかるのだが。それをなぜ物理的に殺戮するのか。もちろんここでのなぜ、はわかっていて言っている。行うもののなかにあるものは、レベルの低さであり、本人も気づいているのでは、ということである。その気づきも、”体制維持””上位者からの命令”によって、抑圧され実行されただけではないのか。

 

実行者の苦悩、があるのではないか。だから隠す。無かったことにする。相手のことをとことん知らない(汚らわしい行為=カルトとみなす)、知りたくない、知ると”自らが苦しむ”。

 

なので、こうしてグノーシスの思想が現代にも”流出”しているのだろう。そしてヘッセに、ユングに、私にも届くのであろう。

 

宗教家も含め、通常の人々は、神を非常に遠い存在ととらえているので、神を体験的に知ることができるとは信じられないのです。

「内在の神」を「自己」として体験したことを、教会が異端と見なした時代もありました。今日でも、アバターを”悪魔に取り憑かれた者”と呼ぶ宗派があります。また、イエスの「キリスト意識の神性」を否定する人々さえいます。これらはすべて、人間は”ここ”にいて、神は”上”にいるとする、分離の二元性にしがみつく自我に由来します。

 

P.55 デビッド・R・ホーキンズ (わたし) 真実と主観性 立花ありみ訳

 

カルトは大概、搾取的です。カルトの教祖は支配的で、お金を重視します。また、組織に対する忠誠心を強要し、布教を叫び、配偶者や家族、友人との関係を断絶させます。秘密や階級があり、洗脳に近い形で心理的圧力をかけたり説得を行ったりします。なかには教団を去った後でもネガティブな影響が続き、精神的にも肉体的にも病んでしまう人がいます。また、イニシエーションや宣誓、忠誠の誓いがあるのもカルトの特徴です。教祖はカリスマ的で説得力があり、個人崇拝を求めます。信者にセックスを禁じても、自らはそのルールに規制されません。

同、P.47

 

グノーシスが、カルトとして扱われた、という歴史的な事実があるとしたら、そのことがカルトとはなにか、真理の道はどこにあるのか、ということを考えるきっかけとなってもいる。

 

それが理由なのかもしれない。

 

 

デミアン (新潮文庫)

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グノーシス―古代末期の一宗教の本質と歴史

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<わたし> ―真実と主観性(覚醒ブックス)

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わたしと”私”。

経験をした、記憶としての私は、そのときのままとしては無い。

 

今、思い出す私の中にある。

 

また、今の結果としての将来の私はあるが、

それもまた今思っているものだ。

 

これは当たり前であるが、そのことはそうだ、と思っていないと、ぼやける。

 

過去の自分に引っ張られ、将来の自分が気になる。

 

今、私があることだけだ。

 

これが、コギトエルゴスム、我思う故に我あり、の意味、池田さんのおっしゃる”思う我あり”の意味だろうと思っている。

 

当たり前で、わざわざ何故そう思うのか、とも思うこと。

 

過去はない、将来はない、今だけ。

 

聞けば誰しも納得するだろう。無い、の意味がすこしずれる。

 

過去の記憶があることを、無いといっているのではない。

将来が来ることを、無いといっているのでもない。

 

だが、過去や将来は今にない、ということを、考えるのではなく、感じること、そうあること、が難しいようだ。

 

感じる、とは、今に安らぐこと。

 

考えるとは、今から逃れ、過去や未来に束縛されるリスクをもった行為。

 

荘子にある、”将らず、迎えず、応じて而して蔵めず”の語が伝えること、

 

これは心の持ちよう、便法を伝えるものではなく、今しかない、という事実を感じるための意識を示していると思っている。

 

あなたが、(私)と思うとき、それは思考にすぎない。

また、個別化した(私)があるという想念、個の意識に過ぎない。

それらは幻想だ。

それは実在である(真我)そのものではない。

しかしながら、あなたが(真我)そのものでなくなることはあり得ない。

なぜなら、あなたが存在そのものであり、(真我)そのものだからである。

これを、よくよく知りなさい。

それを見分け、気づきなさい。

これは、何度繰り返し伝えても、なかなか理解できないものだ。

なぜ理解できないか。

ただただ、頭で理解しようとするからだ。

それほど、人間というものは思考や想念や観念と自己同一化しており、

まだ幼い(私)というものは、理解するためになんであれ、

対象を作り出してしまうものだからである。 

 P.144 ヘルメス・J.・シャンブ ”それ”は在る

 

個別化した”私”、とは、”エゴ”と言われて”思い”として”意識”としてあるものである。

 

これは空、という限界や境界のないもののなかに流れる、雲のようなもの。

 

流れ来て、ただそうある。

 

思いもそう。感情もそう。

 

ヘルメスのいう”真我”の永遠のなかに、浮かんで、来りて、やがて去るもの。

 

去ることが重要なのではない。貴重なものでも、意味のないものでもない。

 

ただそうあるもの。

 

それが雲であり、思いである。

 

そのことを味わい、感じる。

 

 

それがわたしだ。

 

?それ?は在る―ある御方と探求者の対話 (覚醒ブックス)

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全てに注意を払う。

海外に行くことがある。

 

特に初めての場所。全てが目新しく、きらきらしている。

あるいは、興味深い。

 

貴重な経験、見落としてなるものか、と感覚は前後左右に触覚を伸ばす。

 

海外に限らない。新しい場所ではよく起きることだ。

 

だが、数回行くなら、そこに(短期間でも)暮らすなら。

 

全てを見ようとは思わなくなる。”もう知っている”。触覚は頭に収まる。

 

今住んでいる場所。この生。

 

当然慣れている、が。

 

すべての瞬間に、上述の”初めての海外での如く”触覚を伸ばしている、という状態も可能なのかもしれない。

 

観る、というよりも、注意を払う、と考えるほうがいいだろう。

全てに注意を払うのだ。

目に見える全ての外的なものに注意を払い、

同時に、内的活動つまり思考や感情にも注意を払い続けるのだ。

(中略)

もしその状態に留まっていれば、

やがて一つの新しい認識がやってくるだろう。

それは、外的なものも内的なものも、共に外的なものだ、という認識だ。

(中略)

通常、人は自分の身体を境に、内側と外側を区別する。

その認識がまた分離という認識を強化していることになるのだが。

だが実際は、内面というものはない。

あなたの身体の内側全てから世界の全てまで、

全てはあなたの外側にあるものなのだ。

そしてまた同時に、それら全てがあなたの内側にあるものなのである。 

P.253 ヘルメス・J・シャンブ著 ”それ”は在る 

 

例えば、上記の書のこのような記述を読み、通勤途上で回りを見てみれば、

毎日の同じ通勤路、ふと気が付いていない、見ることのない、神社の木々に気が付く。

 

毎日よこを通っていたのだが。

 

見て、気付くことはなぜかなかった。

 

わかっている、当たり前、敢えて見る必要なし。

 

そう思っていたのだが、そうか?

 

 

そうではないのではないか??

 

との思いつきでふと見た木々のなんだが新鮮なこと。

 

木がある。私がある。

 

 

 

全てがある。

 

“それ”は在る

“それ”は在る

 

 

 

 

 

睥睨するヘーゲル。

を読んでいる。

 

池田晶子著、94年に雑誌”正論”へ記載された文章を嚆矢とする。

 

本は読む時期、読む”自分”によって”読め方”が違うという。一読驚異、”ああ、池田さんはあのことをこうおっしゃっていたのか!!”

 

完全にわかってらっしゃる。そしてそのことを”自分=私=某”がこの”地球=今生”でどのように考えたのか、そのずれと掛け違いを、楽しんで報告されている。

 

そういう本だったのだなあ。

 

最近はいわゆるケン・ウィルバーや禅、エックハルト・トール(トーレ)などの本を読んでいるのだが、

池田さん、おんなじことをおっしゃっている。それもわかりやすい”日本語”で。

 

そして親切だ。魂が優しい。

 

池田さんのことを対談集”君自身に還れ”で大峯顯氏が評して曰く、”観世音菩薩だ”。

 

その通りだと、思う。

 

魂と脳味噌はちがう。

 

これはいわゆる、自分の意識と自分は違う、とケン・ウィルバーがいうのと同じだ。

脳味噌は記憶を抱き、抱き続けられない=痴呆となる。

 

魂である、自分は、わかっている。だが、記憶がないと、記憶がないこともたぶん、わかる。だが、皆さんに、孫に、係累に、すでにだれだかわからない、”眼の前のひと”に、

 

そうであることをいうのははばかられる。

 

優しい、魂は、たぶんそう”考える=感じる”。

 

だから、虫が、犬が、草が、おなじように”わかっている”だろうことも感じる。

ここ、だいぶ飛躍しますが。

 

えー、池田さん、こうおっしゃってます。

かく言う私にもなんにもない。

 

もとより、自分の過去とか過去の出来事とかが、自分というものを規定しているとは思っていない。(中略)いかなる奇態な経験を山と経ようと、それらを経験した自分はずっとこの自分であったという、そのことの「なぜ」の方のみいつも私は見つめているので、出来事の方なんか忽ち忘れてしまうのである。「昔の恋人なんか覚えていない」。いっぱい居たような気もするんだけど。

 たんに情が薄いだけなのかしら。

 それもなくはないような気がするが、直線的時系列を生きている自分と、それらの現象を「思い出す」自分との間には、実は根源的な断絶があるのである。いや、断絶することによってやはり連続しているのである。道元禅師がそのことを、

「前後ありといえども前後截断せり」

 と喝破したのだ。すなわち、現象の側を在ると思うか、現象を現象と見ている自分の側を在ると思うか。

 

      睥睨するヘーゲル 池田晶子 p.25 講談社

 

現象を現象と見ることの、むつかしさを、思う。

 

 

睥睨するヘーゲル

睥睨するヘーゲル