夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

諸行無常と色即是空。

散歩で橋を渡るとき、河を眺めつい思う言葉、

 行く川の流れは絶えずして、しかも同じ水にはあらず。

 

ワンパターンだなあ、と思いつつ、なんとなくこのフレーズが頭をよぎる。

 

水をモチーフに、全ての目前に生起する出来事は、この”時間”と”空間”のなかで常、すなわち永遠とは連なっていない、言わば奈落へおとされるような、突き放す怜悧な現実を、人々に伝えることばである、とこれまで思っていた。

 

いわばいわゆる、メメントモリ、死を想え、次はお前だ、というやつだ。

 

だが、ふと疑問に思う。本当にそうなのだろうか。

 

ここでいう”そう”は、まあいろいろ出てくるだろうが、まずは奈落、怜悧、のあたりのところ。奈落と思えば、実はソクラテスの洞窟の比喩がごとき、みずからの影に、気がつくように、と促す言葉なのではないだろうか。

 

人は永遠にあこがれる。死をおそれ、まあそんなことはないだろうと思いつつ、なるべく”自らの死”を考えないか、いわゆる”宗教”(ここは敢えてかっこ書きにします)にて死後の安寧、天国を保証してもらうがために、現世で功徳を積む、とりあえずそのような対応をしておくのだ、日々の”稼ぐ”暮らしのなかで、というあたりが私やあなたのせいぜいではないだろうか。

 

だがなあ、

 

そういうことにしておいて、本当にいいのかなあ。。

 

という”心の声”が、いつもどこかにあった、そしてある気がする。

 

そこで、”死を想え”である。死から逃げるな、眼をそらすな。

 

そらすと逆に、辛く苦しいだけだぞ、思考停止、”そういうことにしておく”の罪。

 

いわゆる此の世の宗教の存在原因は、このうまれてから生きている、人の根底にある原初の恐怖=死すこと、だれもまだ見たことがない(というか見て還ってきていない)死を、考えなくてもよくするというところを担って、いわば精神安定剤としての機能をはたして来た、ということではないか。

 

だが、そういうことにしておくのには、限界がある。

 

そこで考える、”諸行無常”そしてそのあとの”諸法無我”。

 

これはセットである。セットでなくてはならない。突き放して、そして促しているのではないか。

 

法、すなわちタロットでいう”THE WORLD"、この世のすべてをこう呼んでいるはずだ。そこに"われ”がない、あるいはいない。

 

こう、言っている。

 

いや、いますよ、ここに。

 

とそうなる。ふつうは。

 

だが、そんなことはわかっている、つまりあなたが私がみんなが、そう考えていることは。

 

しかしそうなのか?

 

ということをこの2フレーズは突き付けているような気がする。

 

永遠はある。これが最近の僕の答えだ。見つけるものではなく、遍く、在るのだが。例えばこの空(そら)。

 

見上げれば私との境界なく、ただあるこの空。雲が流れ、太陽が輝き、鳥が飛びロケットも飛ぶ(ロケットは見たことがないが)。

 

いくら考えても、この宇宙の果てがあるとは思えない。果て、とは終わり、ではその先には何があるのか。

 

その先は、考えられない。宇宙がどこかに広がっているのであれば、広がる前の部分はなんと呼べばいいのですか。

 

その部分がもしあるのなら、それもやはり空=宇宙ではないのですか。

 

なぜか疑問形になりつつ、通勤途上で空を見上げていたわけですが。

 

うーん、どうやらこの空こそ、”永遠”というやつらしい。

 

そして私は文字通り比喩的意味ではなく、その一部。

 

空、と私、に本質的な差異がない。

あれ?ではこの眼の前の電信柱は???

 

差、ないなあ。

 

虫も樹も、塵芥も空気も、みんな

 

差がないなあ。(違いはあるが、本質的な差はない)

 

確かに動物は動いている。だが、

 

電気で、ガソリンで、動くのと本質的な差は、もしかしてない??

 

人間も動物だ、と思ってきた。しかし、人間も分子とか粒子とか、まあよくわかりませんが、そのようなものからできている。

 

そういう意味では本質はこれともあれとも一緒だなあ。。。

 

まあ、空を見ていてそんな風に感じている。

 

で、“諸法無我”。我が無いのではない。我、という差がないのである。みんな、本質は一つであるよ、と。

 

変化しているように思い、絶望し、考えたくなるのではなく、我という区別はない、ここに今いる。

 

いることは間違いない。

 

カントは言った。”思う我あり”。

 

我思う故に我あり、というのはすこし間違いやすい訳だろう。

 

カントの驚きはすこし違うニュアンスのはずだ。”思っているところの我、これだけは誰?がなにをいおうとあるじゃないかああああっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!”

 

という感じではないだろうか。

 

だから驚いた。思えば我がある、というぬるい思いつきではたぶんないはずだ。私がいるっ!!間違いないことはそれだけ!!という感じだと思う、たぶん(私見ですが)。

 

そして想う、”色即是空”。

 

色とは“諸行”。

 

諸行はすなわち常(=永遠)ではない!と思いがちであるが、永遠なのだ!!(まあ、時間と空間がない、ということが永遠のSPECですが)

 

空即是色=すべてである空(ここは”くう”と読もうかな)とはすなわち諸行無常の諸行でもあるのだよ!!そうおもわないかもだけどねっ!!

 

全ては一つなのだよ、

 

ということ、この有名なる2つの考え方は、

 

結局はおんなじことを言っていたのだなあ、

 

 

とそんなことを最近考えています。

 

 

存在とは何か。

 

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

 

  池田さん流の "言え言え” が久しぶりに読みたくなってこの本を開けた。

 

 池田さんは、”四聖” を、”行って還ってきた人” と評されている。

 釈迦、キリスト、孔子ソクラテスの4人であるが、さてどこに行ったのか。

 

 つまり、存在の謎、あるいは存在の彼方、であろう。

 

 池田さんの“云え云え”はいわゆる禅の公案と同じである、と、この本の白眉対談者のひとりである藤澤令夫氏は述べている。池田さんに“言え言え”と(うらやましくも)迫られて。

 

藤澤:池田さんが「魂」という言葉を使うときに、宇宙全体をイメージしますか。

池田:境目なんてどこにあるのだか。

藤澤:そうでしょう。

池田:どれが何なんだか、全部がいっせいに渾然と動き出す感じがあります。「魂」と言った途端にウワーッと広がって、底が抜けちゃうみたいな。

藤澤:それが哲学の正当な魂です。

 2001年哲学の旅 池田晶子 編・著 P.134

 

宇宙は、境目なんてどこにもなく、全部、である。

 

宇宙は魂であり、それが”哲学の正当な魂”である。

 

2人はそう語り合う。

 

同じように対談で”言え言え”と迫られた当時100歳の哲学者ハンス=ゲオルグ・ガタマー氏は、絶句のあと、”存在は光だ”、と絞り出さされている。

 

藤澤:じゃあ、ガタマーさんが存在は光だと言ったのなら、ぼくは「闇」、と言おうかしら。史上はじめて存在そのものを正面切って論じたパルメニデスは、「光」と「闇」(夜)から出発して構想された世界内存在を、真理ではなくて、死すべきものどもの思惑だと喝破したんだ。けれど、ぼくのいう闇としての存在というのは、イデアとくに「善」のイデア抜きの存在のことで、実際にはそんな存在は虚構でしかないから、やはり存在の求知者の魂の目には、光り輝いていると思いますがね。

 同P.136

 

現在はトルコ領だというエフィソスに、万物流転「パンタ・レイ」を言ったヘラクレイトスを訪ねて池田さんは引用される。

 

<同じ河の流れに、われわれは足を踏み入れているのであるし、また踏み入れているのでもない。われわれは存在しているし、また存在しているのでもない>

<不死なる者が死すべき者であり、死すべき者が不死なる者である。かのものの死をこのものが生き、かのものの生をこのものが死している>

<私にではなく、理法(ロゴス)に訊け。そして万物は一であることを理解するのが知るというそのことだ>

同P.154

 

サモス島にかのピュタゴラスを訪ねて池田さんはつぶやく。

 

宇宙の在りよう、宇宙の秘密を、物質生活など知ったことか、とにかく知りたいのだと切望する心性は、ごく一握りである。ましてや、そのような若者を導ける人、宇宙の秘密に通じた人は、さらに少ない。イタリアに渡って教団を形成したピュタゴラスの教えの伝授は、全て口頭で行なわれ、学徒たちの口も揃って固かったという。秘密の知恵が俗衆に漏れることによる弊害を、彼らは知悉していたのだろう。弊害とはたとえば、現代社会におけるオウム真理教の事件である。

 同P.152

 

 

 

霊魂の輪廻転生説を言い出したのも、この人である。数多の動物、植物の生を経巡り、人間においては、ある時は某、別の時は某であったことを全て記憶している。不浄な魂は冥界において必ず苦しむ。したがってわれわれ、今生においては常に魂の浄化に努めるべきなのである。 

 同P.153

 

これは宗教、これは哲学、と分けることの不毛を想う。存在の向こうを感じて、”考える”こと。

 

オウム事件にも触れておられる。ピュタゴラスが全て口頭で教えを伝え、学徒は口が固い。ごくひと握りの求知者を導く、宇宙の秘密に通じた人の少なさと、知恵の俗衆への漏れによる弊害。これがこの事件に対する池田さんの答えなのだろう。

 

本書は、池田某としての池田さんの魂が、時を超えて(時などなく)、永遠の中で同じ響きを持つ魂たちと邂逅したことを記した稀有の書、である。

 

ああ、まさに”コンプリート・ガイドブック”である!

 

小人。

存在することのシンプルな感覚

存在することのシンプルな感覚

ウィトゲンシュタインが、ぶっきらぼうに言ったように、「わたしたちを悩ませるのは、わたしたちの心はわたしたちの内部に住んでいる小人のようなものだ、と信じ込む傾向である」。


 ケン・ウィルバー

存在することのシンプルな感覚  P.213


 確かにこうした感覚がある。


小さくやっかいな、ひねくれた別人格。




あなたは思考そのものではない。

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

“それ”は在る

“それ”は在る

ヘルメス・J・シャンブ著 ”それ”は在る 

P.92

もし思考そのものがあなたなら、

思考がない時、あなたも存在しないことになる。

そうではないかね?

しかし、思考がなくてもあなたは存在している。

あなたは思考そのものではない。

全ての人は基本的に思考と同一化している。

そしてそのことを疑うことはない。

こうして聞かれることがなければ。

 

こう考える自分はどのような傾向の人間か、

 

という方向で”自己分析”し、それを良くしてゆく、磨き上げるのが

やるべきこと、”魂の世話をする”ことだと思っていた。

 

どうやら違うようだ。

 

思考は、あたかも自分が選んでくるような気がするが、

自動的にどこかから飛来する。

 

シャンブ氏は言う。

 

”完全なる注意深さをもって目撃してみなさい。”

 

”本当に、今、これを考えたかったから、自分は考えたのか、と。

この思考が浮かんだから、これを考えたのではないか、と。”

 

空に雲がある。

 

空が、この雲が欲しいから、この雲を呼んだ、のではない。

ただ、流れてくる。様々な気象条件で。

 

空は、空のまま。

 

思考は、雲と同じ。

 

ただ、流れてくる。思考ではない、”私=目撃者”の前に。上に、目前に。

 

であれば、思考は、目撃者とは、別に決まっている。

 

しかし、そう、言われないと、わからないことだ。

 

”わかる”=そうであったのか!

 

隠されていた(何から?)事実が生与のこととして想起される。

 

あああ、思考とは”これ”とは別のものだ。

 

そう、”これ”と身体が、別である通り。

 

これ、思考、身体。

 

それらが、一体となって、”今”に在る。

 

 

そういうことか。

 

そういえば、同じことを、”2001年哲学の旅”で

 

池田晶子さんがおっしゃっていた。

 

 

思考と、身体は別である。

それが分かっているひとには、なかなか会えない。

 

そんな人を探すのが、池田さんのあの”旅”の目的の一つだったのだろう。

 

差別と区別。

 

池田さんの文章で折に触れ、最近よく思い出すものがある。

 

”差別はいけないドクサ”に真正面から切り込まれたもの。

曰く”差別はいけないが、上品(じょうぼん)、下品(げぼん)の魂の区別はある。多いに区別すべし”。

 

区別、いいのか!!!

 

”天才はすごい”という、ごく普通のドクサに対しても、一喝。

”天才はすごくない”(孤独ではあるかもしれないが)。

 

天才、すごくないのか!!!!

 

目から鱗がだいぶん落ちた気がしたものだ。

 

 

ひとには、生与の条件がある。

 

背が高い、肌の色、性別、脳の能力。努力する持久力のようなものも。

 

 

この、ある意味いかんともしがたい差異を、おもい、患い、嫉妬する。

 

これこそがすべての苦しさの元凶である。

  

差別するこころを良くみてみると、そこにうずくまる恐怖が見つかる。その恐怖とは、”次はお前だ”である。

 

こいつは今は確かに自分より"下”かもしれない。

だが自分は”上”を本当にキープできるのか?

 

未来永劫??

 

あり得ない。この自分の中にあるどす黒い優越感を、みずから受ける日が来る。必ず来る。

 

それがわかっている。

 

あああ、いやだーーーーーーー

 

こわいーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー、

 

である。

 

 

この恐れの存在を理解し、直視し、解消すべきだ。

 

そこに自由がある。

 

池田さんは、差別はいけないが、区別はいい、とおっしゃった。

 

区別=上品(じょうぼん)、下品(げぼん)。

 

かつて援助交際がなぜわるい、誰に迷惑をかけた、という援助交際者本人からの(ある意味悲鳴のような)しぼりだすような吐露に対し、誰にも迷惑はかけてはいないが、お前の魂にわるい、と池田さんは喝破された。

 

お前の魂に悪い。

 

その言いっぷりに、大きな、菩薩心を感じる。

 

 

 

ソクラテスがいうように、”魂の世話”のためにこの世に、この生にあるのであれば、いかんともしがたい天与の差に思い患っている暇などはない。

 

自らの魂を抱き、大切に育てる(チェリッシュ)すべきなのである。

 

 

 

万物に貴賤なし。ただ差異と区別のみあり。

 

 

 

人であること、毛虫であること。それはすべて偶然。人であることが別に偉いわけではない。ただ、与えられたものが違うのみ。

 

これは、人としての能力の差異と、レベルは違うが根本は同じ。

 

このコップも、このほこりも。

 

差が、在るだけである。

 

そしてもし”全は一、一は全”と考えるのであれば、

 

このほこりと私は全のなかの一部である、とこうなる。

 

 

ほこりは、私である。 

 

 

空の境界。

池田晶子さんの本を読んで、

 

悩むな! 考えろ!

 

と喝を頂き、

 

では、悩むとはなにか、考えるとはなにか、と考え、

確かに、悩むと考えるは違うなあ、とまずは思ったのである。

 

考えるは、深みがある。水平にも垂直にも突き抜けることができる。

 

悩む、には、過去に過剰に引っ張っられたり、未来を思い悩むかたちでこれまたひっぱったり、している。

 

考える、には、過去があり、未来があったとしても、それを今のわたしが考えるの遡上に乗せて、そしてそこを足掛かりに飛翔しうるのだ。

 

そして思った。無限とはなにか。

 

通勤途上、歩いていて空を見ている箇所がある。

 

見上げて思う。空は、どう考えても、境界はないなあ。

 

そらの境界があったとして、その向こうに空ではないないかがある、

ということはないなあ。

 

つまり、そらは境界がなく、無限であり、毎日こうして上にあるんだなあ。

 

そして”上”。

 

これもないなあ。

 

重力があって、地球があって。

 

で、立っているだけで、

 

考えたらわかりやすい無限である空、宇宙の一部だなあ。

 

 

であれば、空は無限、地球も無限の一部、そうするとこの”私”もまた

 

無限のなかの一部だなあ。

 

別に無限はすごいことでもなく。偉いことでもなく。

 

 

まあ、とりあえずそのようにあるだけなのだが。

 

 

それがどうした。

 

どうもしない。

 

ただ、それだけであったのだ。

 

 

 

 

唯脳論。

池田晶子「悪妻に訊け」p.42((ソフトカバー版)

脳という構造を研究することは、その機能である心を研究することでもある。脳と心、このふたつは、同じ何かの二つの面なのである。

 

当時東大の現役解剖学者であった養老孟司が、NHKスペシャルの冒頭で述べたという語を池田さんが拾ったものだ。

例の「共同体無意識」ってやつ、それには自分と他人の区別などないのですよって。(同P.43)

池田さんは倦まず尽きずに語られていたのだ。

同じことを、手変え品替え、伝えようとしてくださったのだ。

 

自分と他人の区別などない、”それ”について。

 

なかなかわからなかったのだが、その視点で読んでみると、なんだか違う読み方ができるように思っている。