海外に行くことがある。
特に初めての場所。全てが目新しく、きらきらしている。
あるいは、興味深い。
貴重な経験、見落としてなるものか、と感覚は前後左右に触覚を伸ばす。
海外に限らない。新しい場所ではよく起きることだ。
だが、数回行くなら、そこに(短期間でも)暮らすなら。
全てを見ようとは思わなくなる。”もう知っている”。触覚は頭に収まる。
今住んでいる場所。この生。
当然慣れている、が。
すべての瞬間に、上述の”初めての海外での如く”触覚を伸ばしている、という状態も可能なのかもしれない。
観る、というよりも、注意を払う、と考えるほうがいいだろう。
全てに注意を払うのだ。
目に見える全ての外的なものに注意を払い、
同時に、内的活動つまり思考や感情にも注意を払い続けるのだ。
(中略)
もしその状態に留まっていれば、
やがて一つの新しい認識がやってくるだろう。
それは、外的なものも内的なものも、共に外的なものだ、という認識だ。
(中略)
通常、人は自分の身体を境に、内側と外側を区別する。
その認識がまた分離という認識を強化していることになるのだが。
だが実際は、内面というものはない。
あなたの身体の内側全てから世界の全てまで、
全てはあなたの外側にあるものなのだ。
そしてまた同時に、それら全てがあなたの内側にあるものなのである。
P.253 ヘルメス・J・シャンブ著 ”それ”は在る
例えば、上記の書のこのような記述を読み、通勤途上で回りを見てみれば、
毎日の同じ通勤路、ふと気が付いていない、見ることのない、神社の木々に気が付く。
毎日よこを通っていたのだが。
見て、気付くことはなぜかなかった。
わかっている、当たり前、敢えて見る必要なし。
そう思っていたのだが、そうか?
そうではないのではないか??
との思いつきでふと見た木々のなんだが新鮮なこと。
木がある。私がある。
全てがある。