生きる哲学 若松英輔 P.263から264にかけて引く。
人間は、内なる光によって照らされた、二度と繰り返すことのない叡知との邂逅、それをさまざまなコトバによって世界に定着させようとした。それが「書く」ことである。
このとき、「書く」とは、コトバを語ることではなく、むしろ、コトバが自ら顕われ出る、その通路と化すことになる。また、「読む」とは、コトバを超えて、その奥にあるコトバに出会うことになる。
今、かつてに比べると「読む」者が減っている。「書く」者は言うまでもない。
ここで「読む」とは、記された文字を情報として、書いた者と対話することである。さらにいえば新しいテクストを「創造」することである。




かつて池田晶子さんは、自らを称して”哲学の巫女”とおっしゃった。
巫女、とは神の言葉を受け、受けたことをそのまま伝える「通路」である。
通路ではあるが、通常の人間は、きちんと神の言葉を受けることができず、それをそのまま伝えることも困難だ。
巫女、はそうではない。真実を、そのままに包んで、チェリッシュして、大切にその自らの口から、聞いているものに伝えるのである。
なんとありがたい存在であろうか。
そして、神の言葉を、そのまま口頭で受けられるのは、基本巫女の前に額づくもののみである。
池田さんは、それをコトバで、言葉で、言語で、原稿用紙にご本人の判読も時にままならない速度と稀有さをもって、書き記された。
その時はまさに、宣託をうけて伝える時、と言っていいだろう。手先のコントロールをしている場合などでは、無いのである。
それが活字となって、本という形態を得て、入手できるわけだ。
思えば先人が練り上げた仕組み、”本”というものは、本当にありがたい。
若松さんがおっしゃる通り、いわゆる”電脳”による文字のI/Pと判読は、だいぶその温度とこちらの整い方に於いて、静かに文章を味わう読書とは違っている。
なぜ違うのか、なんとなくは感じるものの、まだうまく言語化されていない、私の中で。
まあ、単純に、似てはいるが違った行為、と認識するのがいいように思う。
変に”代替行為だ”と思うからいけない気がする。
どちらも、やる。
まあ、食事で”野菜と肉”を食べる”ように。
野菜も肉も、手に入れる価格、経路は違っているだろう。だが両方必要だ。
電脳空間から得る文字や情報は、肉食獣にとっての野草のようなもので、はじめはあったのかもしれない。
だが、食べ続けると、犬のように、雑食となる。
食べると、それを食べることがデフォルトになってゆく。
電脳経由で、すこしずつ人間はキチンと考えることが出来るようになるだろう。
だがすぐではない。
電脳教科書が、紙教科書より、イマイチ教育効果が低いのは、やはりまだ完全に順応できないからだろう。
肉食獣が雑食になる前。今は。
であれば、本来の肉食獣なら、きちんと肉を、そう、紙の本と文字と、そこから得られる”コトバ”を、得ることに意識的であるべきだろう。
それが、今の段階では、一番自らの血肉に、なりやすいのだから。
(うまく”ゾーンに入って読む”ことができると、至福の時間となりますね。これが結構むつかしい。。)