でも、大切なのはうんと時間をかけること、そして「今がその時」を見極めること。村上さんはくりかえしそれを伝えてくれたように思う。ミネルヴァの梟がそうであるように、物語の中のみみずくが飛びたつのはいつだって黄昏、その時なのだ。


我々が一番多く接する村上春樹は、その小説であろう。
だが村上には、小説以外にもいろいろな引き出しがある。
小説でも、長編もあれは中短編もある。
エッセイやインタビュー集、翻訳もある。
私は結果的には結構初期(でも最初期からではない)の村上読者であるが、でも基本ミーハーから入っている。
その本は、接しやすいもの(つまりは何らかの形で本になっているもの)であれば、多分8割は読んでいるはずだ。そして単行本も文庫本もある程度は所有している。
ああ、上記の8割には、翻訳本を入れない方がいいかもしれない。
村上さんは結構翻訳を多くだされていると思うが、それを”村上訳”では追っていないので。
新刊が出ると、図書館の予約がパンパンになるが、その時に過去作を借りたりする。
ブックオフで安くなっていれば、おずおずと購入することもある。翻訳本などは、たぶんそれほど出ていない(小説に比べればという意味)と思うので、たまにしかブックオフでは見ないのだが。
まあ、そんな怠惰な村上読者である。だが、この本は一度図書館で借りたのち、自身で購入に至ったものだ。
前にもこの欄で書いた気がするが、年若い気鋭の小説書きが、先輩の胸に物おじせずぶつかっていっている感がいい。先輩もこの作家を気兼ねなく受け入れている。多分自身と同じ匂いがする、といったような理由で。
そして日々小説に向き合っている、という意味では、まさに”同業者”。
だがこれが、年齢の近い男性作家であれば、そもなかなかインタビューが成立していなかった気がする。
ここで男性・女性、とことさらに言いたいわけではない。男性とひとくくりにするのもたぶんよくはない。
だがまあ、一般的な傾向から起こりうることを推定するに、といった程度の話だ。
思うに村上さんという人は、繊細で人見知りで(喫茶店のマスターをされてはいるが、そこの場を好きになって通ってくれる人との会話であれば、それは人見知りでもできるだろう)、幾分美意識が高め(孤高系)で我慢強いが、本質的には群れるのが嫌いな方だと思う。
群れる、とは本質的にはよこの”個人”と自分を比べ勝ちな環境、と言えるかもしれない。
群れる中で、”好意的”な批評や、”君のためを思っての”先輩としての意見、なども受けねばならない。
それはしんどい。まあ、私はそういう環境は想像するだけであるが、もし同じ環境なら群れないことを選ぶ気がする。
今もたまに”昭和の文壇バー”などという情報を見る。たぶん、であるが、出版社がお代をもつことで結果的に集まったのであろう(馴染みになればそのまま通う)。
村上氏はデビュー作が鮮烈であったがゆえに、旧来の”文壇”からは強烈な反応があったという。無理して文壇バーなどに通っていたら、疲れてしまっていまわれわれが享受している作品群が減っていたかもしれない。
川上さんのインタビューは、もちろんあまりインタビュー集など読まないので、比較はうまくできないのだが、なんというか基本緩やかでいながら時に鋭く、そして共感を持って、という感じで進められていて、読んでいて心地よい。
そしてしっかり(当たり前かもだが)村上作品を事前に読み込んでいるのが、宿題をきちんとやる系の女子(こういう表現も今はよくないか)のようで、安心して任せられる、という気がするのだ。
(創作の場面の境地の一端に触れた気がするのが、一番のこの本の読みどころですね)