夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

何かをクリエイトし続けていくことの大変さ。平井呈一と永井荷風の筆誅似ついて。

f:id:mamezouya:20230221070230j:image音楽でも文章でも、何かをクリエイトしつづけていくことの大変さは、基本的に変わりない。前向きな姿勢がとれなくなったら、生み出される作品から力や深みは消えてしまう。
村上春樹 雑文集 P.215


今日は、8時から13時過ぎまでスタバにいた.

中野という場所は多分4回目くらいで、そこから歩いて高円寺経由阿佐ヶ谷に行った.阿佐ヶ谷にいくのは多分生涯で初めてであろう.

近くにいらっしゃる方からは噴飯もの(あれ?これはご飯を吹き出すほど怒る、の意味でしたかね??)かもしれないが、これらの場所が近くにある、という知識はこれも生まれて初めて得たことになる.

平井呈一氏にゆかりのうさぎ屋さんに伺ったが、金土は休みであり、残念ながらシャッターの閉まった店舗を外から撮影するに止まった.

世紀の文豪永井荷風に師事しながら、戦争による予想外の検閲という荷風自身の責任とはいえぬ状況があったにしろ、そもそも自身が書いた艶文の責を負いたくないばかりに責任を押し付けてきた師の所業を一言も世間に公表せず、黙して死んだ有徳の文士、ということで個人的には平井呈一という人にはちょっと思い入れがある.

それを荷風の孫弟子にあたる荒俣宏氏の著作で読んだ時、醜聞ならぬ美談としてこうして静かに世に残ったのは、やはり平井の人徳、歪んだ事実は明らかになる時もあるのだ、と思った.

そういう意味では晩年まで平井の創作欲が衰えなかったのは、やはり文壇では荷風の筆誅で苦労はしても、やましいところもなくハーンや幻想譚を追及しつづけた前向きさの賜物かもしれない.

そして筆誅を受けても師を特に恨む風もなく、むしろそうした艶文を愛していた風さえある、この平井のきっぷのいい生き様は、いわば江戸っ子の痩せ我慢的矜持なのであろうかと、

関西産の私なぞはしみじみ勝手に、


思うのである.

(うさぎ屋さんの前を歩きましたが、何十年か前には平井呈一自身がこの界隈をあるいていたのか、という感慨もありました)