夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

寛容と不寛容。

森本あんりさんの本を買ったり、読売新聞書評欄で書かれるものを読んだりしている。

そして今原典を参照していないのだが、おっしゃっている「あなたの意見には全く賛成できないのだが、あなたが自由に発言する権利を私は全力で守る」という立場での議論こそ、目指すべきところだ、というご意見に賛成だ。

心理的安全性、というのがある。罪を憎んで、人を憎まず、というのもある。会社では、人に注意するときにはその人格を否定するのではなく、その行為を正しく指摘すべき、という。

その通りである。

私が子供のころから、学校等で発言しなかったのは、発言した内容で周りが自分をその発言内容を体現した存在とみなす、ということが、体感されていたからだ。

先生は「だれか発言せよ」という。だがそのような空間で発言すること自体、その空間の存在条件を把握できない人か、知っていて敢えてチャージする人か、の2択であったのだ。

翻って、学校以外でもそうである。発言はすくなくとも「自身のキャラ」にそって出している。反応が、読めないからだ。いや、読めている。「発言と人格は重なっている」という、大きな理解による反応だ。

だが、そこでは自由な発言をするのが、心理的負担となるだろう。ストレスだ。

日本は文化的・社会的に閉じている。閉じていて、島国であればその中で経済がなんとか回るのだ。1億人いればなんとかなる。精神的には今でもなかば鎖国といってもいい。江戸時代の鎖国は、殿様が無理やり押し付けたと思っていたが、結果的にその状況を大きくは住民は反発することなく(知らなかったこともあるが)過ごしたのだ。

対岸の火事、という。これも慧眼に溢れた言葉だ。だが「そういう心境はちょっと残念ではあるよね」という要素も、そこはかとなく感じる。

そこでほしいのが、客観的な視点。対岸の火事であっても、火事で困った人が見えないけれどいるだろう、という想像力のようなものだ。

ほしい、と偉そうに言っているが、自身で持てる自信はない。全くない。

安心して、どんな意見も、人格攻撃を受けずにいえる空間。これが中長期的にこの世界で必要になるだろう。なかなか、難しい。文化。宗教。生活状況の差。政治形態。いろいろな要素がある。だが。

多分数百年先にはこれは解消するだろう。ネットがあれば基本すべての人々が一つになってコミュニケートできる。言葉の壁も「翻訳こんにゃく」でOKだ。つまりはネットの翻訳機能だが。

バーチャルであれば、仮想空間で話し合える。最近のコロナで、WEB会議であればリアル会議よりも「まあ話してみるか」という気持ちが、会社カースト下位の人間にも少しは出せるようになったと思う。

いろいろと、変化して、ゆくだろう。

(それを「進化」というのかもしれません)