日本、という言い方でいいのかな?
”海外では違う”という思い込みで言ってしまっているのかもしれないが、”同調圧力”という言葉が気になっている。
空気を読む、という言葉と、地続きかもしれない。
この言葉の意味するところ、”これまでの話の流れからして、そしてこの場にいる皆がめんどくさくなく予定調和に一番短時間で到達し、解散できるために、みんなが、あなたが、とるべき、あるいは取らないべき態度はこれである”というようなところだろうか。
よくある。
会社にいると、ほとんどはこの世界である。
どうやらそれが問題らしい。
根っこにある意識を、自分の中で探ってみた。
それはたぶん、”面している問題を自分自身の問題として捉えているかどうか”の問題らしい。問題を自分に降りかかるトラブルとしてではなく、考え、対応すべき問題とみるかどうか。
あるいは、”ひとごと”か。
”ひとごと”である場合は、自動的にこの意識が立ち上ってくる。
ああ、これは面倒だ。収斂のための収斂に、向かうべきだ。
ココハ”ドウチョウアツリョク”ノデバンダナ。。。
なにかそのような、流れである。感じである。
いわゆる都議ヤジ問題。週刊誌の惹句を見ると、ヤジを受けた塩村都議は、飲み屋にて年齢差のある結婚をした加藤茶のことが気持ち悪い、と述べた、とある。
ヤジ問題に関し、近世・近代日本文学が専門のロバート・キャンベル氏は述べる(読売新聞6月29日)。
”その空気感は、日本ではなじみの場面かもしれない。少数派とおぼしき人を傷つけることで結束するという力学を感じる時もある。だから、個人を特定しないことが集団の利益になると考えれば、ハマグリのように口を閉ざしたり、なかったことにしたり。”
なんというのか、根っこにあるのは”好き嫌いの感覚”のように感じる。というか、それだけ、のような。
そこには基本的にこのヤジが発生した問題、つまり少子化、に関する態度・感覚があるようだ。
なんとなく、小学校の学級会を思い出す。小学生高学年では女性の精神年齢が同学年の男子生徒と比べてたぶん高いのだろう。それを男子も感じている。
学級会があれば、真面目な意見を女子が提案。わかっているけど、そんなこと言わないでよ?
・・・これが男子の意見。ちゃかす。ヤジる。
これは、どちらかというと、劣等感、そういう形でしか関われないと深く自身を把握している者の、戦略的に暴力的、ゲリラ的な潜在意識ではよくわかった形の、アプローチだ。
塩村都議、雰囲気的にも学級委員女子、という感じもある。
雑誌惹句も、どちらかというとヤジと同じ匂いがする。出してくるメンタリティは同根だ。
”えらそうに言っているが、実は本人はこんなやつだ”
個人的には、加藤茶の結婚は、あの年齢差はやはり特別感を感じるところだ。それに対し個人個人で感想もあるだろう。だが政治家、というものは、芸能人と同じで、プライバシーは当選時点で”世間に売り渡す”ことになる。だから、飲み屋でも、気を付けないといけないのだろう。
大変、である。
ロバート・キャンベル氏は、日本語への理解は、一般の日本人以上だろう。比喩に自然にハマグリが出る。知っているが故に感じる違和感。同族間の同調圧力。日本で教師業に就く氏は、そうしたことを感じることが多いのであろう。
たぶん、”ぬるま湯”という言葉も関係してくる。問題と本質的に”向き合いたくない”態度。それは、都議という仕事を、”仕事のための仕事”としているからだろう。
本当は、政治家を、本質的な意味でやりたいのではなく。だが、”得意分野で仕事を探す”、これも生きる上での戦略だ。
・・・”食べるために生きる”というときの”生”だが。
池田晶子さんは、政治というものに入れあげる心根に懐疑的であった。
だが、そうであっても、将来の人類を憂えておっしゃった。”文部大臣になる”と。
そこには、純粋に必要なものを行う、という政治の本来の姿を、見つめ求める心がある。好きでもない。どちらかというとめんどくさい。だが、というところ。
そこに、僕は、真の、”政治家のあるべき魂”を見る気がする。