夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

善は広がるのか。悪はどうだ。

今朝食事後の体重66.2kg、体脂肪率5%。

たまにこういう日がある。特に体が絞れている感じはないので、なんというか、不思議な感じである。なんらかの要素(温度?体調?)が関係しているのだろう。

3連休、特に運動した覚えもない。昨日はとても暖かかったので、家にいる防寒仕様のまま散歩に出たら(家の中はとても寒い)汗ばむほどであった。

1時間半ほど歩いたのだが、ゆっくりでいろいろ道草しながらだと6600歩であった。1万歩を歩くには、2時間は歩く必要があるようだ。

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今朝の新聞を読んでいたら、「善は自然に広がる」という考え方を見つけた。これは「広がってほしい」や「広がるべきだ(善だから)」ではないところが秀逸だと思った。

生きる上で、「正義が広がり悪が滅びてほしい」という気持ちがある。こう感じるのはいわゆる「悪」が自身や自身に関係する人々や関係や将来を害するのではないか、という不安があることも一つの理由だろう。

だが。例えば映像にとられた世界史、特に二つの世界大戦や、さまざまな政治的な粛清、虐殺などを見ていても、これはたまたま映像になっているので追体験しやすいのだが、映像にあってもなくてもこうしたどうにもならない「悪」、結果としての「悪」はあったと思う。

悪をなそう、と思ってなす人はいないだろう。他者にとって「悪」であっても、実施者本人にとっては「善」ではなくとも少なくとも「次善」あるいは「やむにやまれぬこと」「成り行き」であり、「他責」である、という思いはあるだろう。

では「善」はどうだろうか。「善」とは弱く、実現が困難だ、という感覚がある。「理想論」ということばには「机上の空論」ということばと、少なくともニアリー・イコールな感じがある。

だが、善は、善であることから自然と、その結果を溢れ出させる、というのである。たしかに、善であることは、じわりとわかるものだ。少なくとも、わかる人が一定数いる。

そして、善に接することはこれも基本的には「快」なのである。快であるから、善、といってもいい。

そこを考えれば、善はじわりと、その姿がどうにもこうにも現れる、という考え方には、一理がある、と感じるのだ。

そしてそのことは、「希望」という言葉とも、馴染みがいいのである。

(善、とは「善きもの」という意味ですものね。。)